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小説:●*kimikiss*Eriko 「トランプと柿と万華鏡」

キミキスショートストーリーズ・第7巻 二見瑛理子編

●*kimikiss*Eriko

トランプと柿と万華鏡



二見瑛理子編
キミキス c2006 ENTERBRAIN,inc.
【1】


 彼は手持ちの選択肢の中から一枚のカードを引いた。それが私に対する答えだった。
 彼の目は迷っていた。どれだけ平静を装い、何とか現状を切り抜けようとしていても、目だけは心の揺れを隠すことはできない。
 自分の力が私にはるかに及ばないことを彼は十分知っており、私の絶対的な優位性に対する隠しても隠しきれない絶望がその目に見て取れた。
 それでもなお、彼は勝負を挑む。私はそんな彼に敬意を表し、敢えて最後まで慈悲をかけることなくその勝負を受けることにする。
「……言って」
「え?」
「そのカードは何かと聞いているの。はっきりとあなたの口から言いなさい」
「……キング」
「ダウト」
「あぁぁぁぁぁ」
 彼は情けない悲鳴と共に、小さなテーブルに重ねられたカードを自分の手札に加える。彼の手には場にあった数の三倍ほどのカードが既にあり、今や五十三枚のカードの大半が彼の手札となっていた。もっとも、このゲームにおいて手札の数は一定量を超えてしまえば単なる足かせでしかない。

 トランプを使ったゲームの中でも定番といえる『ダウト』。一から十三までのカードを交互に場に出していき、先に手札が無くなれば勝ち。ただし出すカードは伏せられており、相手が本当に宣言通りのカードを出しているかどうかはわからない。
 もし嘘だと思えば「ダウト」をコールし、その札を改めることができる。カードが宣言と異なるものであった場合、嘘をついたプレイヤーは場にあるカードを全て手札に加えなければならない。逆に宣言通りであれば、場にあるカードはダウトをコールしたプレイヤーのものになる。
 非常にシンプルなルールのゲームである。
 勝負に勝つには、「不必要なカードをいかに相手に見破られることなく場に出すか」、そして「いかに相手の嘘を見破るか」ということが最大のポイントとなる。それ故、このゲームは心理戦の占めるウェイトが非常に高い。
 だが、プレイヤーが二人である場合、事情は若干異なる。
 カードが、『自分の手札』『相手の手札』『場に出たカード山』の三組に限定されるため、それらを把握していれば「相手が必ず嘘をつかなければならない瞬間」が分かるのである。そこを突くことさえできれば、勝利の確立は格段に上がる。記憶力と統計学的思考を使える側が絶対的に有利な立場でゲームを進めることができるようになるのだ。
 今の私のように。

「うわ、ひでぇ。二見さんのカード、嘘ばっかりじゃん。よくそんな平気な顔でこんなバラバラのカード出せるよなぁ」
 彼は不安定な手の中で、膨大な数のカードをまとめ、整理している。
「ふふふ、褒め言葉と受け取っておくわ」
 彼の不満げな表情を楽しみつつ、視線を窓に向ける。
 電車は単調なリズムを刻みながらすすみ、車窓の外には刈り入れの済んだ田園風景が延々と続いている。遠くに見える山々は黄色を中心に、赤や緑の混じった色彩に染まり、空の抜けるような青さとの対比が美しい。
 市街地を離れ郊外へ向かうローカル線。休日の車内は年配客を中心に六割ほどの座席が埋まり、それぞれが穏やかに歓談している。皆おそらく、私たちと同じ、紅葉目当ての行楽客だろう。
 何故、徹底的なインドア派を自認する私、二見瑛理子がこんな電車に乗っているかと言うと。そのきっかけもまた、トランプ勝負だった。


 放課後の理科準備室。
 私と彼、相原光一は、彼が景品で当てたというトランプを使って二人でゲームを楽しんでいた。神経衰弱、七並べ、ポーカー、ババ抜きとゲームは変わったが、結果はどれも私の完勝だった。
 自慢ではないが私はこの手のカードゲームが得意である。特に、運よりも戦略や心理戦が重視されるようなゲームは、真剣勝負で相手に負けたことがない。
 その日もまた、様々なゲームで彼を手玉に取り、勝利を収めていった。ただ、相原が悔しがるの見るのが楽しくて、調子に乗って大人げなく勝ち続けてしまったのがまずかった。
 そろそろ切り上げようという段になって、相原は大勝負を挑んできた。
「勝った方が相手の言うことを何でも聞く」
 この捨て身の条件を提示され、私は彼の泣きの一戦を承諾した。
 正直、私は慢心していた。勝って相原にどんな無茶を聞かせようか、そんなことを想像すると内心くすぐったい笑いが止まらなかった。だから、最後のゲームを彼に選ばせることについても、深く考えずに承諾してしまったのだった。
 彼が選んだゲームは、「スピード」だった。

 三連敗した私(結局五本勝負まで粘った)に出された相原の要求は、「日曜日にどこか遊びに行こう」という、いささか拍子抜けしたものだった。
 もっと直接的で大胆な要求をふっかけてくるものだと思いこんでいた私は、肩すかしをくらって非常に機嫌を悪くした。
 遊園地の提案に「うるさいのは嫌だ」と抵抗し、水族館には「カップルの多いところには行きたくない」とだだをこね、映画を見て食事でもと言われれば「人の多いところは嫌だ」と難癖をつけた。
 結局ああだこうだと一週間以上相原を悩ませた結果、二人の妥協点は
「日帰りで紅葉を見に行こう」
という、何とも若者らしくないデートコースに落ち着いたのであった。


 気の抜けたアナウンスが、まもなく次の停車駅であることを告げる。
 乗客は一斉に動き始め、網棚に乗せていた大きなリュックサックを下ろしたり、荷物をまとめ始めたりしている。うろ覚えのルートによれば、私たちも次の駅で下りるはずだ。
「私の勝ちって事で、文句ないわね?」
 相原は喧嘩に負けた犬のような表情でこちらを見ている。
「じゃぁ、あなたは今日一日私の言うことを聞くこと。いいわね」
「ちょ、ちょっと待て。そんな約束した覚えないんだけど!」
 彼の口をハートのエースで塞いで黙らせる。これでやっと先週の屈辱をはらすことができた。


【2】


 電車からバスに乗り換え、ハイキングルートの入り口に向かう。電車の中にあれだけいた行楽客はそれぞれ別のルートにわかれ、私たちの乗るバスには中高年の夫婦が三組同乗しているだけだった。相原の話では、このルートを本格的に歩く人たちはもっと朝早くから出発しているという。
 バスの客達は若者が珍しいのか、世間話を持ちかけたり、飴を勧めたりと、何かと私たちにちょっかいをかけてきた。これから同じ場所に向かう連帯感みたいなものがあって、こういう場所ではごく当たり前のことなのかもしれないが、正直私はこういう仲間意識みたいなものが苦手だ。それを知っているのか、相原が彼らを愛想よくあしらってくれていて、おかげで私は静かに過ごすことができた。

 行楽客は、あくまでちょっとお出かけにといった風情の普段着の人々と、今乗り合わせている客のように、大きめのザックにトレッキングシューズ、年齢によってはハイキング用の杖まで持った本格的な装備の人々の二種類がいるようだった。私はどちらかというと前者のスタイルで、バスの中で明らかに浮いている気がしなくもない。
 朝の七時に駅前で相原と待ち合わせた際、ロングスカートに薄手のセーター、ジャケットという姿で現れた私の姿を見て彼は目を丸くしていた。
「……やっぱり、変かしら」
「いや、そんなことないよ。すごく似合っている」
 そうは言ってくれたもののやはり気になり、電車の中でねちねちと問いつめたところ、てっきり前みたいにジーンズで来るのかと思っていた。可愛くてドキドキした。というぶっきらぼうな回答が返ってきた。生まれて初めて服装に悩んだ結果としてはまずまずの反応で、嬉しかった。
 ただ、周りの人々の服装を見ると、やはり動きやすいパンツスタイルの方がよかったのかも知れないと思ってしまう。そんな心配を少しほのめかすと、
「気にしなくていいよ。子供連れでも大丈夫ってルートらしいし、無理そうだったら途中で引き返すつもりだから」
という頼もしい答えが返ってきた。
 ガイドブックを何度も見返す姿が少し心配だったけど。

 ハイキングコースの入り口でバスの乗客は全員下り、各々のペースで歩き始めた。
 私たちは最後尾から、のんびりと歩き出す。田畑の中の一本道をしばらく歩くと、道はやがて赤や黄色の木々の中に入り、そこから先はゆるやかな上りが続いていた。
 最初こそ見慣れない景色に目を奪われ自然と足が進んだが、三十分もたたないうちに足が重くなる。一時間も歩き続けるとここに来たことを本気で後悔し始めた。もともと体は丈夫な方ではないし、普段から鍛えていないのであっという間に体力を消耗してしまう。天気がいいので体は汗ばみ、口から出るのは文句ばかり。
「こんなことなら、遊園地でも水族館でも行けばよかったわ」
 道ばたで小休憩をとって、彼から手渡されたスポーツドリンクを口にしながらぶつぶつと言うと、だったらあの時、素直に言うこと聞いてくれればよかったのにと、あっさり返された。確かにその通りだった。
 それでも相原は私が愚痴をこぼすたびにがんばれがんばれと応えてくれて、脱いだ上着と荷物を預かってくれて、足がなかなか進まない私の手を引っ張ってくれた。そのおかげで、休み休みではあったが順調に歩き続けることができた。

「少し早いけど、ここでお昼にしようか」
 彼はそういって、道から少し離れた見晴らしの良い広場で荷物を下ろした。彼はリュックからピンク色のレジャーシートを取り出して広げ、私を先に座らせた。ずいぶん可愛いシートなのねとからかうと、妹が使ってたのしかなかったんだよと言い訳をしていた。

 実はハイキングに来ることが決まってから、今日持ってくるお弁当については二人の間でかなり揉めていた。
 私は重度の味音痴である。そのことについては、私も相原も認識している。
 しかし、それを知った上で相原は「二見さんの手作り弁当っていいなぁ」と恐ろしいことを口にし、私はそれに真っ向から反論した。作ることが嫌なわけではないが、そんなものを食べさせて幻滅されるならまだしも、体調を崩されでもしたらいたたまれない。いやそれでも食べたい二見さんの手にかかって死ぬなら本望だ。馬鹿なまねは止しなさい命が惜しくないの。そんなやりとりがあった挙げ句、結局「勝った者の命令に絶対服従」という最初のルールを振りかざされて、今日の弁当は私が作ることになった。
 もっとも、後に出発時間が思ったよりも早いことが判明し、「無理して作らなくても良いよ」と彼には言われたのだが、そのころにはこんどは私の方が意固地になっていて、意地でも作ってやるわよ、ということになってしまっていた。
 夏の終わりに相原と関わり始めてから、私はこんな非論理的なやりとりをすることが多くなっているかもしれない。

「見て笑わないでよね」
 おしぼりを手渡しながら私はそう前置きして、トートバックからタッパーを取り出した。
 タッパーの中身は、サンドイッチ。
 ハムとチーズ、タマゴ、ツナ、そしてベーコン・レタス・トマトのBLTサンドに挑戦した。形は、難易度の高い三角切りを早々に諦め、正方形の四つ切りにした。できるだけ失敗の少ない選択肢を選んだつもりだった。
 ドキドキしながら蓋を取る。
「おお、おいしそうじゃない」
 相原の第一声に、とりあえずほっとする。
「あんまり綺麗に作れなかったんだけど……」
 よくよく見れば、切り方がいびつだったり、タマゴが多すぎてパンからはみ出ていたり、BLTのトマトが崩れていたりと、あまり見てくれはよくない。
「いやそんなことないよ。一生懸命作ったっていうのが伝わってきて、嬉しいよ」
 たとえお世辞でも、その一言がとても嬉しかった。
 だが、問題は味である。まだ油断はできない。
 相原はタマゴサンドに手を伸ばすと、ためらうことなく口にした。二口で食べきり、咀嚼して、飲み込む。一連の行為を見ている私の方が胃が痛くなりそうだ。
「うん。おいしい。失礼ないい方かも知れないけど、普通においしいタマゴサンドだよ」
 彼は次々と別のサンドイッチにも手をつけ、おいしいを繰り返した。
 とりあえず私はほっと脱力した。自分がそこまで緊張していたことに、初めて気がついた。
 調理実習で一度は作ったことがあるので、ぶっつけ本番というわけでもない。ただそれでも不安で、クラスメイトの祇条深月に頼んで(彼女の家の専属シェフから、素人にも作れそうな)レシピを教えてもらうという、以前の自分では信じられないような手段まで講じた。今朝は朝の四時から調理に取りかかり、極力アレンジを避け、化学の実験並みに慎重にレシピ通りの調理を心がけた。それでも、自分の舌が信用できないことを知っていたので、最後まで不安は拭いきれなかった。
 彼の言葉とその表情で、ようやく努力が報われたと分かり、安心感と共に満足感で心が満たされた。
 好きな人に手料理を振る舞うという平凡な行為がまさか自分にできるとは思ってもいなかったし、それを褒めてもらうことがこんなに嬉しいことだとは思いもよらなかった。
「二見さんも食べなよ」
「うん。でも、なんだかもうお腹いっぱいになっちゃったわ」
 食べておかないと体が動かないよと見当はずれのことを言う相原に、私は笑ってカップに水筒のコーヒーを注いで手渡した。

 一息ついて眺めてみると、目の前に広がる風景は思った以上に美しいものだった。目の前に大小三つの山が連なり、その下には山に挟まれるようにして田畑や民家が見える。その中には最初に私たちが通り過ぎた民家もあって、そこそこの高さまでは上ってきたんだなぁという気になる。
「……シンプルじゃないのよね」
「え?」
「紅葉って、もっと山全体が真っ赤になってるとか、そういうのを想像していたの」
 今まで歩いてきたハイキングコースのような、山の一部分だけを切り取って見てみれば、たしかに今にも燃え出しそうな赤い景色に出会うこともある。しかし、山全体を見てみると、黄色や赤色、そしてまだ色づいていない緑色がまだら模様をなしていて、
「見ていて飽きないわ」
 よく分からないけど、と相原は前置きして、
「でも、綺麗だと思ってくれているなら、僕も嬉しいよ」
「そうね……。綺麗ね……」
 感じ方が二人の間で違っても、それを大切だと思う気持ちは同じということなのだろうか。
 そう思うと、今見ている風景がますます大事な物に思えてきて、私はしばらくその風景を目に焼き付けた。


【3】


 休憩の後の足取りは軽かった。
 体が歩くことに慣れてきたのかもしれないし、手料理を褒められたことで機嫌が直っただけかも知れない。
 不思議なもので、体に余裕ができると景色の印象もずいぶん変わってくる。いや、目に見える物だけではなく、鳥の声や木々のざわめきの音、風が肌を撫でていく感触、そういった今まで気付きもしなかったものを感じ、自分が日常とは切り離された空間にいるということに改めて認識できた。
 日曜の昼下がり、知り合いも、他人も、誰もいない静かな森の中を、相原と二人きり、ただ歩く。
「すごく贅沢な時間の使い方よね」
「贅沢……。そうだね」
 繋いだ手を、ほんの少しだけ、強く握った。
 同じ手を繋ぐのでも、相手に手を引いてもらうより、肩を並べて歩く方がずっとよかった。

「この音……。川があるのかしら」
 そうして歩いているうち、森の奥からいままでとは違う音が聞こえてきた。
「えーと、そうだね。少し奥に流れているみたいだ」
「ねぇ、行ってみない?」
「えっ?」
 私の提案に、相原はガイドブックから目を上げた。
「無理かしら」
「いや……大丈夫かな。すぐ近くみたいだし。ただ、ちょっと意外だったから」
「ふふふ、折角こんな所まで来たんだもの。マニュアル通りなんてつまらないでしょ」
 相原の手からガイドブックを取り上げる。そんな私の様子を見て彼は苦笑した。
「何よ」
「いや、訂正。やっぱり、二見さんらしいや」
 二見さんらしい。
 そんな言葉が彼の口から出てきたことに意外にも動揺してしまい、思わず顔を逸らして顔色を隠す。
「ほら、行くわよ」
 私は相原の手を引っ張って、森の奥へ奥へと進んでいった。手を引かれるより、肩を並べるよりも、やっぱり相手の手を引いて歩く方が私の性に合っている。

 ハイキングコースからは見えなかったが、森は少し奥に入ったところから急な下り坂になり、川はその底を流れているようだった。落ち葉が積もりすべりやすくなっている斜面を、互いの手を繋ぎ木の幹につかまりながら慎重に下りる。
 やがてたどり着いた小さな沢は、砂地の上に大小の岩が転がる五メートルほどの幅の場所だった。その真ん中を、大人なら一足で飛び越えられそうな幅の川が流れている。
 私は靴を脱いで素足になると、驚く相原を尻目に、さっさと川の中に踏み込んだ。
「ひあぁぁぁぁ」
 思ったよりも低い水温に、思わず間抜けなうめき声を上げてしまう。が、しばらく我慢して慣れてくるとその冷たさが、歩きづめで火照った足には心地よかった。
 靴を脱ぐのにもたついている相原を待たずに、さらに川の中へと足を進める。狭い川幅の割に、深さは一番深いところで私の膝下ほどまであって、スカートの裾をたくし上げなければならなかった。
「あなたも早くいらっしゃい。気持ちいいわよ」
 振り返ると、相原はズボンの裾を上げる格好のままで、私の方をぼんやりと眺めていた。
「どうかした?」
「いや……カメラ持ってくればよかったなって」
 視線の先を追うと、どうやらそこは私の膝から太股にかけての領域らしかった。
「何よ。足なんて、制服や体操服でなら見慣れているじゃない」
「いや、これはこれで趣があるというか、この姿ならではというか……うわっ」
 しどろもどろの相原に、私は水を蹴り飛ばした。
「ちょっ、ごめん、悪かった!」
 それでも私は水を飛ばし続ける。最初は仏頂面を装っていたが、そのうち我慢できなくなり、最後は声に出して笑いながら、水を蹴飛ばし続けた。
「許して欲しかったら、さっさとこっちにいらっしゃい!」
 水から逃げまどいながら必死に近づこうとする相原は、見ていてとても愉快だった。だから、川底が柔らかな砂地で、深い水の流れが意外と強くて、付け加えるなら自分の運動神経があまり良くないことを思い出したのは、バランスを失った後だった。
「あっ」
 私の体は後ろ向きに、尻餅をつく形で倒れていく。このままいけばよくて腰まで、最悪全身が水の中に沈む。
 水の中に。
 人は足下までの水があれば溺れることができるという。
 水。
 おぼれる。
 たすけて。
 ……

 もうだめかと思った時、とっさに伸ばした右手を相原が間一髪のタイミングで掴み、強引に引き寄せる。
「……っ、大丈夫!?」
「……」
 私は相原の体で受け止められていた。
 思考が停止して、彼の言葉も、耳元に触れる安堵のため息も、濃いフィルターがかかっているようにしか感じられない。
「全く、ふざけるのもほどほどにしておかないと」
「……うん」
「この時期に濡れたら、風邪どころじゃすまないかもしれないんだから」
「……ごめんなさい」
 川の真ん中で、相原に抱かれたまま、私はまだ体の震えがとまらなかった。
「……二見さん。もう大丈夫だよ」
 相原の手が背中を優しく撫でる。しばらくのためらいの後、彼は腕に力を込め、私の体を強く抱きしめた。右耳と彼の胸が密着する。
 どくん。どくん。
 それは彼の胸から聞こえる心音なのか。
 それとも私の耳の底から聞こえる脈拍の音なのか。
 ようやく緊張が解け、同時に不意に涙腺が緩み、鼻の奥がつんとする。
 声をあげて泣き出しそうになるのを我慢するために、私も彼の背中に手を回して力いっぱい抱きしめた。
 大丈夫。大丈夫。すぐ側でささやき続けてくれる大丈夫を聞きながら、
 うん。もう大丈夫。震える声で何度もそう答えて。
 手を伸ばしたときに離したスカートの右裾は水につかってびしょ濡れになって、それを気にした相原が左手でスカートをたくし上げようとして。
 その瞬間私の右手がその手をつねり上げて、改めて自分の手で裾を持ち上げて。
 それでもまだ、私たちはそのまま、川の中で抱きしめ合っていた。



【4】



「ねぇ」
「何?」
「重くない?」
「大丈夫」
 秋の日は短い。
 日がかげりはじめた頃、私は相原の背中におぶさって、昼間歩いてきた道を下っていた。
 大丈夫とは言っているが、リュックサックを前向きにかぶり、私のトートバックを左手に持ちながら私を背負う相原は、口数も少なくなりがちで、すぐ近くで聞こえる息づかいにも疲れが見える。山歩きは下りの方が体力の消耗が大きいとどこかで読んだ気がする。
 ずり落ちそうになった私の体を担ぎ直し、相原は休まず足を進める。密着していた方が揺れが少ないからという彼の言葉を思い出して、わたしは再度、彼の首にしがみつき、背中に全身を預けた。

 なぜこんなみっともない姿をさらしているかと言えば。
 川でバランスを崩したあの時、私は左足の足首をひねっていたのだった。川から上がって足の感覚が戻ってくると、体重を乗せるたびに刺すような痛みが走る。
 黙っていようと決めていたが、道へともどる急な坂道を自分でのぼることができず、相原には早々に怪我がばれてしまった。意地をはってみたが、私の靴を半ば強引に脱がされ、怪我の具合を確かめられた。
「指は動く? ……じゃぁ、折れているとかはなさそうだね」
「だから大丈夫だっていってるでしょ」
「駄目だよ、もう腫れてきてる。無理したらよけい悪くなるし、そのうち靴を履いているだけで痛くなるよ」
 散々意地を張ってみたが、彼の強引さに押し切られ、結局私は彼におんぶされることになった。これも揉めたが、当初の予定も変更し、このまま元の道を引き返すことになった。
 斜面は下りるときも危険だったが、上るのはもっと難しそうだった。私と荷物をかついで一人で上ろうとした彼は、何度かずり落ちて泥だらけになった。
 結局、まず私だけを担ぎ上げ、もういちど沢に下りて今度は荷物を担ぎ上げるためにもう一往復することになった相原は、二度目に上ってきたときには荒い息を吐いていた。少し彼には休んでもらいたかったが、帰りのバスの時間にせっつかれてそのまま出発せざるを得なかった。
 怪我なんてしなければ。意地を張らずに最初から彼に助けを求めていれば。帰り道にしても、素直に彼の言うことを聞いていれば。
 思考がネガティブな方向に捕らわれて、済んでしまったことをいつまでも考え続けてしまう。疲れた中で歩き続ける相原に、ただ背負われているだけなのがさらに申し訳なく、それでも意地っ張りな私は素直に謝ることもできない。だから、時々似たような言葉を繰り返すだけで、会話も二、三言で終わってしまう。
 行きはあれだけ心地よかった沈黙が、今はこんなに痛い。
 みっともなく泣いて謝れれば、どんなに楽だろう。男にしてみれば、そんな反応の方がまだ可愛いに違いない。
 どうしてこんな私を、相原は好きになってくれたのだろう。
 彼は今、どんなことを考えているのだろう。私と関わり合いを持ってしまったことを、今度こそ後悔しているのだろうか。口先ばかり達者で、肝心なところで何もできない私に、愛想を尽かせてしまったのだろうか。
 背中からでは、彼の表情は見えない。

「ごめんね」
「えっ」
 唐突に彼の口から出た言葉に、私は驚いた。
「無理言って連れてきたのに、こんな目に遭わせちゃって、ほんとごめん」
 最初、彼が何を言っているのか、よく分からなかった。どうして彼はこんな私に謝っているのだろう。
「行きに家があったから、そこに寄って湿布かなにか貰うよ」
「……いいわよ。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないって」
 無理に明るく話しかけてくれる。私なんかよりずっと疲れているはずなのに。
「今日はこんな事になっちゃったけど、また二人で遊びに行こう。今度は、二見さんの行きたいところにつきあうから」
「……楽しかった」
「えっ」
「楽しかったから。あなたと来れて楽しかったから。だから、こんな事になっちゃって、ごめんなさい」
 あぁ、どうしてこんなぶっきらぼうな言い方しかできないんだろう。
 こんなに楽しかったのに。こんなに謝りたいのに。
「……うん。楽しかったって言って貰えると、僕も嬉しい」
 でもどうして、彼は私のことをこんなに分かってくれるんだろう。
「ついでに言うと、ごめんなさいよりも、ありがとうの方がもっと嬉しいんだけど」
「……がとう」
「ん、何か言った? 聞こえなかった」
「……りがとう」
「もう一回」
「嫌」
 ははは。彼は軽く笑って、よっこいしょ、と私をもう一度担ぎなおした。
「寒くない?」
「大丈夫。それより、本当に重くない?」
「平気平気。どっちかっていうと……」
「?」
「もうちょっとボリュームがあった方が嬉しいってぐわっ、ギブ、ギブ!」
 私は彼の首を締め上げて、ついでに自分の貧しい胸を、思い切り彼の背中に押しつけてやった。

 急に気持ちが軽くなって、周りのことが見えてくる。
 日はもうすぐ山陰に入ろうとして、周囲は明るい色を保ちながらもゆっくりと暗くなりつつある。風の冷たさが気になり始めたけど、彼の背中はとても温かい。彼が歩くたびに心地よい振動が伝わり、誰かに守られているという幼子のような安心感に包まれる。
「あ、柿」
「えっ、どこ?」
 来るときには見えなかった柿の木を見つけて、彼は道をそれて歩み寄る。柿はよく見る丸い形ではなく、先のとがった菱形の実で、それほど大きくない木がたくさんの実を重そうに結んでいた。
「二見さん、一個とって」
 言われるまま腕を伸ばし、いちばん色づいた実をひとつもいだ。
「食べてみなよ。きっとおいしいよ」
「そうね。でもあなたが先に食べてみて」
 行儀がわるかったが、服でかるく表面を拭いて、後ろから彼の口に近づけた。
「あー、でも先に食べるのは申し訳ないというか」
「遠慮しなくて良いから。早く食べてみて」
 押しつけるようにして無理矢理口にする。彼は観念した様子で、一口、私の手から柿をかじる。
「う」
 途端に妙なうめき声を発して、慌てて口の中の欠片をはき出す。相原の歪んだ顔が見て取れるようだ。
「ふふふ、おいしかった?」
 こんなハイキングコースの途中にあるたわわに実った柿の木が、渋柿でないわけがないのだ。それを二人とも知った上でのおふざけだった。
 しきりにお行儀悪くつばを吐く相原に、鞄からスポーツドリンクを出して、おなじく背中越しに彼の口に持って行く。二人羽織の要領なので、彼はなかなか口を付けることができない(当然わたしが狙いを外している)。やっとドリンクを口にした彼は、何度か口を濯いで道ばたにはき出した。
「あー、渋柿なんて食べたの幼稚園以来だよ」
「そうなの?」
「あの頃は近所に果物の木があれば、片っ端から取ってたからなぁ」
 歩きながら、懐かしそうに相原は話す。
 そういえば、私は渋柿なんて食べたことはない。そもそも、果物が木になってるところを目にしたことも、ひょっとしたらなかったかもしれない。
 相原が柿につけたかじりかけの跡に、私は思いきって口を付けてみた。
「う」
「どうした?」
 口に広がる渋みに、私は思いきり顔をしかめた。


【5】



「まぁまぁ可哀想に。じゃぁそっちから裏にまわって、縁側で待っててちょうだい。いまお薬箱もっていきますから」
 古民家と呼んでも差し支えない大きな家で、私たちを出迎えてくれたのは、白髪の老婦人だった。農機具が入れてあるとおぼしき倉庫まであって、家の造り自体は農家のそれなのだが、おおらかでいてはっきりした口調、痩せていてもしゃんと背を伸ばして歩く姿は、農家の「おばあさん」というには少し失礼な気がした。

 バス停に向かう途中で立ち寄った民家。平気だから大丈夫だからと背中で抵抗する私を完全に黙殺し、相原は臆せずベルを押して、それで人が出ないとなると声を張って人を呼び、出てきた老婦人に事情を説明して薬を貰えないかと頼んだ。人見知りの激しい私は彼の背中でただ黙っていることしかできなかった。
 玉砂利が敷かれた通路を通り、広い裏庭に出る。純和風の庭園を想像していた私たちは、西洋風のガーデニングが施された「庭園」を見て、少なからず驚いた。
 相原は腰をかがめ、私を慎重に縁側へと下ろしてくれた。窓に面した一面を部分的に改築したらしく、かつて障子戸だったであろう部分はサッシ扉に、縁側もウッドデッキと縁側のあいのこのようなデザインになって、西洋風の庭の一部として違和感なくとけ込んでいる。
「足、見せて」
 相原は荷物を置く間ももどかしいといった様子で、私の足を確かめようとする。くじいた左足は素足のままで、いきなり触られた私はぞわぞわするような、くすぐったいような感覚が背筋から首筋まで走り、思わず漏れそうになる吐息をこらえ右足で相原を蹴りとばした。
「痛っ、何するんだよ」
「いきなり触らないで。びっくりするじゃない」
 しりもちをついた相原がやれやれという表情で起きあがり、うやうやしく跪(ひざまず)いた。
「それでは、おみ足の様子を拝見させて頂きたいのですがよろしいでしょうかお嬢様」
「……。いいわ。特別に許してあげる」
 彼の冗談にちょっとだけ気分が良くなってしまった自分が悔しくて、彼のなすがままにされることにする。
「ここは大丈夫?」
「んっ」
「こうしたら?」
「いっ」
 足首を押したり曲げたり、足の甲やふくらはぎを揉まれたりと、左足を丹念になで回され、くすぐったさと、時々襲う痛みとで、我慢していても何度か声を上げてしまう。
「相原……。あなたまさか、足フェチとかいう性癖の持ち主?」
「しっ! 失礼だな」
 確かに二見さんの足は綺麗だとは思うけど……と言葉を濁しつつ、あからさまに動揺しているあたりが余計に怪しいのだが。そういえば水辺でも妙に足にこだわっていた気もするし、背負われていたときも手の動きが妙によそよそしかったような。
 腫れはひいたけどまだ歩くのはやめておいた方がよさそうだねと、名残惜しげに私の足から手を離す相原に。
「……好きなだけ触っていいのに」
 さらに追い打ちをかけてみる。
「結構です」
 それは、「降参です」と同じ意味だ。言い負かされたのが不満なのか、私の隣に並んで、乱暴に縁側に腰を下ろす。
 西から夕日が差し込んだ庭は、花の色も木々の緑も全て暗い赤一色に塗りつぶされて、本来の姿を楽しむことができなかった。
 時間、大丈夫? うん、最終のバスがまだ一本ある。
 帰るのは遅くなっちゃいそうだけど、大丈夫かな? 私は平気。
 夕焼けを眺めながら、そんなとめどない会話を交わす。
 互いの指が触れ、なんとなく手を重ねる。
 背負われている間ずっと後ろ姿しか見えていなかったので、なんとなく彼の顔が見たくなる。横を向くと、彼もまた私の方を向いていて。
 このままキスしてしまうのもいいかもしれない。
 そんな気持ちのまま、互いの顔がゆっくりと近づいて、
「おまたせしちゃってごめんなさい」
 不意に背後のサッシが開いてお盆を持った老婦人が現れ、私たちはあわてて顔を背けた。
「あら。おじゃまだったかしら」

 薬を頂くだけで結構ですという私たちを老婦人は引き留め、
「いまお父さんの携帯に電話したら、もうすぐ戻ってくるそうだから。街まで用事もあるし、駅まで乗せていって貰えばいいわ」
そういって私たちにお茶を振る舞ってくれた。
(ちなみに私の足に湿布を貼る栄誉は相原に与えられた。彼は複雑そうな表情だった。素直に喜べばいいのに。)
 お茶は庭でとれたハーブティーだそうで、炎症を沈める効果があるということだった。少し苦みがあって相原は飲みにくそうにしていたけど、小さな頃から薬を飲むのに慣れていた私にとっては、どことなく懐かしい味がした。
「ここはいい所なんだけど、話し相手がお父さんしかいないのが困るのよね」
 そんな理由で、旦那さんが戻るまでの間、婦人は私たちを相手に世間話をくりひろげた。
 旦那さんは元は商社マンで、婦人共々海外での生活も長かったこと。
 お子さんは娘さんが二人いて、ずいぶん前に社会人として独立し、今では滅多に連絡をよこさないということ。いつ結婚するのかやきもきしているということ。
 退職後、前から目をつけていたこの家を借りて、旦那さんは畑仕事、婦人は庭いじりで毎日楽しく過ごしていること。
 老婦人は話し上手な上に会話の種も豊富で、相原がときどき合いの手を入れるぐらいで、ほとんど彼女一人で話していた。私に至ってはただ頷くことしかできなかった。

 やがて玄関で車の音がして、旦那さんが裏庭に姿を現した。婦人と同じように髪は白く染まっていたが、日に焼けた丸い顔は健康そうで、何より明るい方だった。
「ちょっと荷台から荷物降ろさないといけないから、もうしばらく待ってなさい」
 あ、じゃあ手伝いますと、相原は旦那さんに従って玄関に向かい、縁側には私と老婦人の二人が残された。既に日はほとんど落ち、家の明かりが庭に四角い光を落としていた。
 庭のどこかからか、虫の鳴く声が聞こえてくる。
「素敵な彼氏さんね」
「えっ?」
 少しの沈黙のあと、婦人は先程よりすこし落ち着いた調子で話しかけてきた。
「あなたのこと、ずっと心配してたわ」
「……はい」
 お世辞にも社交的とは言えない私は、そうやって短い返事を返すのが精一杯だった。
「ずいぶん尻に敷いているみたいだけど」
「そ、そんなことは、ないです」
「いいのよ。ああいう、自分にベタ惚れしてくれてる男は、尻に敷いて、時々頼りにして、ここぞというときに甘えてあげれば満足してくれるから」
 ふふふ、といたずらっぽく笑う。その笑い顔がとても無邪気で、私はちょっと羨ましかった。
「……結婚しようって、言ってくれてるんです。卒業したら」
 なぜこんな話を、今日あったばかりの彼女にしてしまったのかわからない。
 まだ決心がつきかねて、両親にもはなしていないというのに。
「あら。失礼だけどあなたおいくつ? 大学生?」
 二人とも高校二年ですという答えに、婦人はあらあらと、驚いているのかそうでもないのか私には判断がつきかねる調子で応えた。
「ずいぶん気が早いのねぇ。娘達にも聞かせてやりたいわ」
 やっぱりそんなに驚いてはいないみたいだった。
「それで、あなたは?」
「……嬉しかった。でも、私なんかで本当にいいのかなって」

 一人で生きていこうと思っていた。
 誰にも頼らずに生きていけると思っていた。
 それが、彼と出会ったことで、自分がいかにいびつで未熟な人間だったかが分かって。
 一緒にいると頼ってばかりで。彼がいないと何もできなくて。
 だから迷ってしまう。こんな私で、彼を幸せにできるのだろうかと。

 ぽつぽつと話す私の言葉を、婦人は頷きながら聞いてくれた。そして、ひとしきり胸の内にわだかまっていたものを言葉にしてしまうと、
「でも、あなたは彼と一緒にいると幸せ?」
 そう聞かれた。
「……はい」

 一人で生きていこうと強がっていたのは、きっと寂しくて寂しくてたまらなかったから。
 本当はずっと、誰かに側にいて欲しくて。
 だから実験なんて名目で彼を巻き込んで、利用して。
 そんな私を彼は受け入れてくれて。
 その寂しさに気がついてしまったから、もう私は彼から離れられない。

「じゃあいいのよ。心配なんかしなくて」
 婦人は、いともあっさりと私の心配を切って捨てた。
「えっ?」
「あなたの心配はね。幸せが目の前にぶら下がってるのに、手を伸ばす前から『失ってしまったらどうしよう』って考えてるようなものよ」
 まぁ、私には『幸せすぎて怖い』なんておのろけにしか聞こえないけれど。
 そういって婦人は上品に笑った。
「迷わず飛び込んじゃいなさい。女神様には前髪しかないわよ。心配事は山ほどあるだろうけど、生きていればどうにかなるものよ。もっとも」
「?」
「彼があなたから離れていっちゃうなんて事はまずあり得ないとおもうけど。これは女の勘ね」
 婦人がわたしにそっと目配せをする。彼女の視線の先を追ってみると、
「あっ……相原!」
 物陰でこちらを伺う相原の姿があった。
「あー、車の準備ができたんだけど……なんか出て行きづらくて」
「……どこから聞いていたの?」
「な、何のことかな? うわ痛い! 痛い!」
 相原の頬を爪を立ててつねる私と、泣いて許しを請う彼を見て、婦人は若いってすばらしいわねぇ、と笑った。



【6】


 蛇行しながら山を下る軽トラックの荷台で、私と相原は去りゆく山影を眺めていた。
 夕闇迫る深紫色の空に黒い山影が浮かび、片側の稜線だけが今にも沈みそうな夕日に照らされ、赤く映えている。私たちはしばらく言葉もなく、その偉容が遠ざかっていくのをただ見送っていた。
 運転席の後ろにもたれるような形なので、車は後ろ向きに進んでいく。
 座席は荷台の上に古いクッションを置いただけだったが、後ろから私を抱きかかえてくれるスペシャルシートがあるので、安定性は抜群だ。
「また来ようね」 ぽつりと呟く私に、腰に回した手に力を込めることで相原は応えた。

 お兄さんが荷台に乗るから、お嬢さんは助手席に、と進める旦那さんに無理を言って、私も一緒に荷台に乗せて貰うことにした。相原の膝の間にすっぽりと収まり、見送ってくれる婦人に手を振って応える。
 わたしの膝の間に置いたトートバックには、婦人が持たせてくれたおみやげが入っている。
「たまに娘が帰ってきたときも、かさばるからそんなにいらないって言われるんだけど。ついついあれもこれもって入れちゃうのよねぇ」
 そう言って渡されたビニール袋には、柿やらサツマイモやらがぎっしりと入っていた。
 そしてもう一つ。これは、相原には内緒の贈り物。

「あのさ」
 山がもう見えなくなった頃。彼は私の後ろで言った。
「何?」
 あの時の言葉は、勢いなんかじゃないから。
 何があっても、僕は二見さんの事を一人にはしないから。
「だから、僕のことを信じて欲しいんだ」
「……。何よ。やっぱり聞いていたんじゃない」
 素直じゃない私は、相原の言葉に文句でしか応えることができない。
 彼はそれを沈黙で受け流す。
 どうやら、冗談で逃がしてくれる気は無いらしかった。
「相原」
「うん」
 私は後ろを振り向くと、強引に彼の唇を奪った。
 目を閉じる間も与えない、短いキス。
「……」
 そして今度は、長い長いキス。
 唇を開き、互いの舌を絡めあい、深く深く、互いの気持ちを確かめ合う。
 肩越しで少し首が痛いけど、そんなこと全く気にならない。
 腰に回された彼の左手に私の右手を重ね、手をつなぎ、指を絡める。
 左手を彼の首に回し、もっと近く、彼の頭を引き寄せる。
 いつのまにか私は体ごと向き直り、正面から彼を抱きしめていた。
 トートバックが倒れ、荷台に柿が転がる気配がしたけど気にしない。
 カーブを曲がるたびに離れそうになる不安定な体を、彼が膝で抱きしめてくれる。
「……愛してるわ。光一」
「……僕も、愛してる。二見……瑛理子さん」
 こんな陳腐でストレートな愛の言葉に、泣きそうなくらい心が震える。
 何度か息継ぎを挟み、体が溶けてしまいそうな喜びを味わいながら、これまでにしたことがないくらい濃密なキスを繰り返す。
「……後ろの車が」
「……何」
「後ろの車、家族連れがすごい顔してる」
 荒い息を整えながら、彼が笑う。
「いいじゃない。もっと見せつけてやりましょ」
 飽きることなく、私たちはまた唇を重ねた。



 帰りの電車に揺られると、私は疲れが出たのかすぐに眠気に襲われ、彼の肩に頭を預けてすぐに眠ってしまった。
 次に意識を取り戻したのは、またしても相原の背中の上でだった。
「……やだ。ここ何処?」
「あ、起きた? もうすぐ二見さんの家だから」
 相原はまた、私を背負い、両手に荷物をかかえ、えっちらおっちらと歩いている。
「ちょっと……起こしてくれるとか、せめてタクシー使うとか」
「……駅に着いた時のこと、本当に覚えてないの?」
「えっ?」
 なんだかものすごく嫌な予感がした。
「まだ起きたくないとか、おんぶして相原とか、人前で散々ごねてかなり恥ずかしかったんだけど……」
 眠気がいっぺんに吹き飛ぶ。
「……冗談よね?」
「……」
「ちょっと、どうして何も答えないの? ねぇ、相原!」
 彼の頭をぐらぐらと揺する。
「……嘘。嘘よね。嘘だと言いなさい相原!」
「ああいう素直な二見さんも可愛いよ」

 後にこの日のことを二人で思い出すたび、私はこのことを持ち出されてからかわれることになる。……まぁ、一緒に生活するようになってから、私達は互いにもっと恥ずかしい素顔を散々晒すことになるわけだが。



 シャワーを浴びて居間のソファに座り、タオルで髪を乾かしながらぼんやり過ごす。体は疲れていたが、電車の中で一度眠ってしまったためか目が冴えて、今すぐ眠る気にはなれなかった。
 居間のテーブルには、スナック菓子の空き袋と、空のコーヒーカップが二つ、片づけられないまま残っている。
 遠慮する相原を無理矢理、今朝のトランプの件を持ち出して家に上げて、その相原が帰ったのが一時間ほど前。両親がいれば彼に挨拶(当然『娘さんをください』という定番のやつだ)をさせたかったが、残念ながら今日も二人は不在だった。残念に思ったのはこれが初めてだけど。
 私以外が物音を立てない静かな家。普段はこの静けさが落ち着くのに、今は少し寂しい。

 ふとソファの横を見ると、私のトートバックが置かれていた。相原が持って帰ってきて、そのままここに置かれていたのだろう。
 バックから荷物を取り出す。柿や芋のはいったビニール袋。サンドイッチが入っていた空のタッパー、同じく空の水筒。水で濡れた足を拭いたタオル。かじりかけの渋柿。どこで入り込んだのか赤い紅葉の葉もあった。手にするたびに、幸せな記憶が呼び起こされて、くすぐったい気持ちになる。
 そして、鞄の底に大事にしまった、木製の箱。
「向こうにいたときにおみやげにいくつか買って、結局渡さずじまいだったものなの。余り物で悪いんだけど」
 そういって、あの老婦人がわたしにくれたプレゼント。
 箱を開けると、そこには銀色の筒が入っている。筒の片方に目をあて、天井の明かりを見る。
 そこには、教会のステンドグラスにも似た、幾何学模様の広がる青い世界があった。筒を回すたびに世界は形を変える。
 カレイドスコープ。こちらでいう万華鏡は、元はイギリスで生まれたものだという。
「これを見ると、世界はかくも美しい、なんて気分になれるじゃない」
 だから好きなのよね。老婦人の上品な笑顔を思い出す。

 私はどんな大人になるんだろう。
 彼と結婚し、子供を産み、年をとった時、あの婦人のように明るく笑えるおばあさんになれるだろうか。
 自分の将来像なんて、今まで考えたこともなかった。遠い未来のことだからではなく、その未来の存在自体を否定していたから。
 今まで目を背けて来たこと急に考えると、あまりの不安で足下が消えてしまうような気がする。

『迷わず飛び込んじゃいなさい。心配事は山ほどあるだろうけど、生きていればどうにかなるものよ』

 婦人の言葉を思い出す。
 そう。
 気付かなかったことならこれから意識すればいい。
 目を背けてきたことなら、これから一生懸命、考えればいい。
 そうやって、彼と一緒に歩いていこう。
 だって、世界はこんなにも美しいじゃないか。

 私はこの万華鏡を覗くたびに、今日のことを思い出すのだろう。
 小さな旅の先で出会った、美しい世界のことを。素敵な婦人のことを。
 そしてまたいつか、彼女に会いに行こう。
 彼と二人で、私はこんなに幸せになりましたと、明るく笑って報告するために。

 そんなことを思いながら私は、回りながら形を変えてゆく青い世界をいつまでも眺め続けた。





初出
2006年07月02日●*kimikiss*Eriko_title"二見瑛理子編「トランプと柿と万華鏡」




あとがき/にゃずい


キミキスSS、最終回である二見瑛理子編をお届けする。
ゲームが発売されて4年が過ぎた。あの頃と今では、考え方やスタンスは変わったが、それでも自分はキミキスが大好きだと思う。今年の夏は、続編であるアマガミのアニメ化が控えており、まさにアマガミ一色の雰囲気だ。
だからこそ、自分はキミキスをプッシュしている。アマガミとキミキスは地続きの世界であり、アマガミの基本は全てキミキスにあると思っているからだ。できるならば、アマガミからキミキスへと人が流れ、世界の面白さを知ってほしいと思う。さらに2次創作に触れる事でそれはさらに拡張していく。自分が昔そうだったように。ただ、今現在キミキスをメインに扱うサイトはごく少数だ。この再掲載は、そんな埋もれてしまった4年前の熱き想いで溢れている。
TVアニメのアマガミのタイトルは「アマガミSS」だ。SSの意味は未だわからないが、少なからずとも本サイトに掲載したキミキスも「キミキスSS」という名前である。公式と肩を並べるつもりはさらさらないが、それでも公式への挑戦として、この名前を外すつもりはないし、同じ名前であった事を幸運に思う。

当時のSSを再掲載させてもらうにあたり、掲載順はとても悩んだ。
その結果、最もエピローグとして直球であった、明日夏と瑛理子の物語をチョイスした。一番わかりやすく胸に響くといってもいい。とくに瑛理子編は読んでもらえた方にはわかると思うが、ここから始まる未来というテーマがあり、まさにラストに相応しい。最後になるのであまり深い感想はやめようと思うが、これだけは言いたい。作品としての物語はゲーム内だけで完結する。しかし、プレイヤーの中で物語が完結するには他の要素も必要になってくると思うのだ。そんな他の要素を探すお手伝いが少しでもできたら万々歳である。

最後までお付き合いして頂いた読者のみなさんに感謝をこめて。



2010/5/28
小説 -
2010.05.28 Friday :: comments (4) :: -

Comments

 うわああああえりりん! えりりん!

 正直ぎーちさんのSSを、今となってはどこからどう読んだのか覚えていないのですが、この話はもの凄く印象に残っていたのを覚えています。ああ、ここまでえりりんと相原の物語は広がっていくものなんだなあ・・・と。

 自分が少しながらでも書くようになった今、一層「世界を広げていく」ことの難しさを痛感しています。


 そして、にゃずいさんが描くシックなえりりん。・・・ごきゅり。
wible :: 2010/05/29 02:23 AM
ぶっきらぼうな言い方になっちゃうえりりんが可愛くてどうにかなってしまいそう…。

えりりんの魅力が余すところなく描かれているのがすごい。
あとこういう格好のえりりんもいいですね!

ぼく…ぼく…、もう将来に希望しか見えない…ああ!


P.S.
一番最初が「*kimikiss*Mituki」になっているのですが…
さんとく :: 2010/05/30 05:33 PM
渋柿と老婦人の下りでああ、やはりこの話も読んだなあ、と思い出して……
結局、自分ぎーちさんのSS全部読んでたんだなあ、と。

普段タイト目のジーパン姿しか想像出来ない自分にはロングスカート姿は新鮮かつ鮮烈でありました(;´Д`)ハァハァ

台詞から行動から音痴さん節全開ではありますが。
相原のおかげで色の付いた世界を見れる様になったのかもしれませんね。
そして綺麗な色の未来も。

未来は万華鏡の様にクルクル変わるかもしれませんが相原と一緒なら大丈夫そうですね。
例え方向音痴でもw隣に相原さえいれば。
はるなま :: 2010/06/01 09:08 PM
■wibleさん
明日夏とえりりんの話は、キミキスSSの中でも特別な感じがします。
なんというか一番ゲーム後の物語として読みたいものになってるんですよね。
エピローグとして、そして新たなスタートして最高のニ作品だと思っています。
世界が広がっていくという意味でも、この二つの作品を最初と最後に紹介できてよかったと思います。

あと、えりりんの絵は時間がすごくかかりました。ラストにふさわしい華やかさになってたらいいなぁ。

■さんとくさん
タイトル修正しておきました。いや、コピペでタイトル周りをいつも作ってたのでこんなこともありますなぁ!ははは!(もうわけないっ)

で、えりりんですよ。
こういうえりりんが見たかったんですよ。
これは明日夏編にもいえることなんですが、モロにゲームの延長線にある
想像したとおりの彼女らの姿なんですよね。

そりゃ未来に希望しか見えないわ!

■はるなまさん
やはり全部読まれていましたかw
懐かしい思い出はこれにて終了です。

これからキミキスSSにて、もう一度新しくキミキスの世界に風を起こせたらいいなぁと思ってます。

この瑛理子のエピローグが新しいスタートになるようにがんばります!
にゃずい@管理人 :: 2010/06/05 12:04 PM

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