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小説:●*kimikiss*Mituki 「あまやどり 〜祇条家秘話〜」

キミキスショートストーリ-ズ・第6巻 祇条深月編
●*kimikiss*Mituki

あまやどり 〜祇条家秘話〜



祇条深月編
キミキス c2006 ENTERBRAIN,inc.
 
 
 相原菜々は、右手にタオル、左手に温かなミルクの入った皿を持って、慎重に玄関のドアを開けた。
 ドアの外は雨。大粒の雨が乾いた初冬の街を濡らし、薄暗い住宅街の景色をさらに薄く煙らせている。
 そして、玄関の前に寝そべる、住宅街にはひどく不釣り合いな一匹の番犬。
「リンゴちゃん。お腹、空いてない?」
 菜々は番犬……リンゴという名のドーベルマンの横にしゃがみ、おそるおそる、ミルクの皿を置く。
 リンゴはしかし、うっすらと目を開け、二三度匂いを嗅いだだけで、再び目を閉じた。
「ミルク、嫌いなの? 好き嫌いしてると、おっきくなれないよ」
 菜々はミルクを指に浸し、リンゴの口まで持って行く。しかしリンゴは顔を背け、やはり興味を示さなかった。
 番犬として教育されたリンゴは決められた人間からしか餌を食べないのだが、菜々はそんなことは知らない。付け加えるなら、リンゴはすでに立派な成犬で、これ以上大きくなることもない。 
 やっぱり祇条さん家の犬だもんねぇ。普通のミルクじゃ駄目なのかなぁ。そんなことを呟きながら、今度は乾いたタオルを手に取り、おそるおそる、リンゴの背中を拭いた。
「濡れたままだと風邪ひいちゃうよ。大人しくしててね」
 幸い、これにはリンゴも抗うことなく、じっと菜々の為すがままになっていた。毛皮自体は自分の体温で既にほとんど乾いていたが、体を撫でられるのが心地いいらしく、ときどきぐるぐると喉を鳴らす。
「ご主人様のこと、心配?」
 人の言葉がわかるのか、リンゴはくぅん、と一声応えた。
「大丈夫だよ。祇条さんにはお兄ちゃんがついてるもん」
 体を拭きながら、菜々が優しい声をかける。
 だが、リンゴはなにか気に入らないのか、ふてくされた様子で鼻を下げ、あさっての方向を向いた。



 とんとん。
 部屋の外から、ドアがノックされる。
「どうぞ」
 部屋の主ではない私がそんな事を言うのもおかしかったが、律儀に返事を待つであろう彼のために、そう答える。
 ドアを開けて入ってきたのは、相原光一さん。この部屋の主。気取った様子で片手でお盆を支えながら、もう片方の手で器用にドアを閉める様子は、格好いいというようりちょっと滑稽で、私は少しだけ笑った。
 そんな私に安心したのか、光一さんは私の前に座布団を置いて座り、私に湯飲みを二つ、差し出した。
「お待たせいたしました。粗茶ですがどうぞ。……こっちは生姜湯。体が温まるからって。」
「ありがとうございます。色々ご迷惑をおかけしてしまって。」
 いいからいいから、と笑って、彼は自分の湯飲みに手をつけた。
 私も、甘い香りのする湯飲みを口に運ぶ。温かい甘さが、今の私にはとても有り難かった。

 一時間ほど前。
 突然訪れた私とリンゴを、光一さんは何も言わずに迎え入れてくれた。
 傘も差さず、頭のてっぺんから爪先まで文字通りずぶ濡れだった私は、光一さんのお母様によって素早くタオルでくるまれ、お風呂場に連れて行かれて、手早く衣類を全部脱がされて熱いお風呂に放りこまれた。私がよほどひどい顔をしていたのだろう。お母様もその間、私に何も事情を聞こうとはなさらなかった。

「えーと、服、大丈夫だったかな」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
「そっか。良かった。……菜々のじゃやっぱり小さかった?」
「はい……丈が、ちょっと。おへそが見えてしまったので」
 彼の笑いに誘われ、私も少し笑う。
 私が今、身につけているのは、新しく封を切った妹の菜々さんの下着と、光一さんのトレーナーにハーフパンツ。トレーナーはサイズが大きくて、肩口は広すぎて下着の肩が見えてしまいそうになるし、袖はたくし上げても時々ずり落ちてきてしまうけど、そんなことは気にならない。何より彼の服に包まれているということに安心感を覚える。
 着てきた服は、今、母さんが乾かしてくれているから。
 体、寒くない? 暖房強くした方がいいかな?
 風邪薬とか飲んどいたほうがいいかな?
 そんな言葉に、ありがとうございます、体は大丈夫です、と答える。私のことを気遣いながらも、差し障りのない光一さんの優しい言葉が嬉しい。

「……雨、まだ降りそうだね」
「……そうですね」
 二人で、窓の外を見上げて話す。厚い雲のせいで昼間も日差しはほとんど届いていなかったが、そろそろ日が暮れるのだろう。窓の外はさらに暗さを増している。
「……祇条さん……深月さんが来たとき、正直びっくりした」
 ……ごめんなさい、と言う前に。
「でも、嬉しかった。僕を頼ってきてくれたんだって」
「……」
「深月さんを守ってあげたい。そう思った。だから……」
 光一さんは正面から、私の目を見て話す。
「……僕で良ければ、話してくれないかな。何もできないかもしれないけど、とりあえず聞いてあげることなら、できるから……」
 光一さんの顔が不意に歪んで見えなくなる。
 今まで我慢してきたものが堰を切って流れだし、借り物のハーフパンツの生地に、いくつも水玉模様を作ってしまう。
 慌てて隣に寄り添ってくれた彼の胸に抱かれ、私はしばらく、黙って泣いた。



「やまないねぇ」
 と、菜々。
 リンゴは軽く鼻を鳴らして応える。
 菜々とリンゴは相変わらず玄関で、並んで座っていた。
 雨は先程より勢いを増し、夕闇も相まって表はますます暗くなっていた。
 ドアの前のポーチにも、雨の飛沫が時々跳ねてくる。
 それでもリンゴは、そこが自分の場所だとばかりに動こうとせず、菜々は菜々で家の中に居づらくて、リンゴの側にずっと居続けていた。
「似たもの同士だもんねぇ。仲良くしようね」
 耳の後ろを掻いてやると、リンゴはあーはぁ、と間の抜けた声を上げた。



『お父様はちっとも、私のことを解ってくださらない!』
 そんな言葉を、よもや自分が父親に言うとは思わなかった。
 幼い頃から私のことを愛し続けてくれた父。時に厳しくはあったけど、父の愛情は自分が一番理解しているし、私自身も父を愛し、その愛に感謝し、応えていこうと思っていたはずだった。
 それなのに。

 あの突然の婚約破談の日から二ヶ月余り。忙しい中から時間を割いて、父は幾度目かの話し合いの時間を用意してくれた。
 説得と反論、哀願と拒絶、苛立ち、怒り。
 そして私は思わず、その言葉を叫んでしまっていた。
 父の驚き、傷ついた表情が忘れられない。
 私もおそらく、似たような表情をしていたに違いない。
 父の愛を裏切る言葉を吐いた自分に驚き、そんな自分が信じられなかった。
 私は思わずその場を逃げ出した。
 解って貰えなかったことより、自分が父を傷つけてしまったことが悲しかった。
 どうしてあんな暴言を吐いたのか、自分を許せなかった。

 気がつけば私は一人雨の中に飛び出し、街の中をあてもなく歩いていた。
 足下に擦り寄る、濡れた温かな存在に気がつき、ようやく我に返る。
『リンゴ……私、どうしたら……』
 私は膝をついてリンゴの首を抱きしめ、雨の中、一人泣いた。

「……落ち着いた?」
「……はい。ごめんなさい、取り乱してしまって」
「いや。僕こそ、急かしちゃってごめん」
 どのくらい泣き続けたのだろう。
 光一さんの胸で声を上げて、幼子のように全身で泣いて。
 嗚咽の中で、父への思いを言葉にならない言葉で叫んで。
 泣き疲れてもなお、肩を振るわせて泣いて。
 その間、光一さんはずっと私のことを抱きしめ、頭を、背中を、優しくなで続けてくれていて。
 ようやく話ができるくらいに落ち着いた頃には、光一さんのシャツの胸は私の涙と鼻水ですっかり色が変わってしまっていた。
 光一さんはティッシュの箱をたぐり寄せ、優しく顔を拭いてくれる。私はなされるがままに、目を閉じ、上を向いて、じっと涙を拭ってもらった。
 そのままもう一枚、今度は鼻に当ててもらって。恥ずかしかったけれど、そのまま音を立てて鼻をかんだ。
「……ちょっと、甘やかしすぎかな?」
「ふふふ、そうですね。こんなことしてもらったの、子供の頃以来です」
「目が、ウサギみたいになってる……」
 彼はそっと、私の目尻にキスをくれた。

 体の向きを変え、今度は光一さんの乾いた左胸に顔を寄せ、彼の腕に抱かれて。
 二人で止まない雨を見上げる。
「……お父さんと、喧嘩したんだ」
 私は無言でうなずく。
「……お父さんに、ひどいこと言われた?」
 私は首を横に振る。
「ひどいことを言ったのは……私です」
 それだけでまた、涙が出そうになる。
「そっか」
 そんな私の頭を、光一さんはくしゃくしゃと撫でてくれる。
 自分たちの声と、雨の音と、彼の鼓動しか聞こえない、静かな世界。
 自分が世界の全てから守られているような、そんな落ち着いた気分になる。
「深月さんは……。子供の頃、悪いことして叱られたり、お父さんと喧嘩とかしたりしなかった?」
 光一さんの問いかけに、幼い頃の自分を思い出してみる。
 穏やかで、平和で、両親の愛情という繭にくるまれた子供時代。
「……ほとんどありません。お父様のいいつけは絶対でしたし、私もそれを守っていましたから」
「そっか……。僕はしょっちゅうだったよ」
 そう言って、光一さんは自分の小さかった頃の話を聞かせてくれた。
 妹の菜々さんと喧嘩して、手を挙げてしまったときのこと。
 勉強しろと口うるさい親の言葉に反抗したときのこと。
 約束を破ったときのこと。
 そして、私との結婚のことを打ち明けた時のこと。
「喧嘩もしたし、殴られたことも数え切れないほど……というと大げさかな。何回かはある」
「私達の事の時も……ですか?」
「いや、深月さんの時はまず呆れられて、その後必死で説得された」
 まともに親とぶつかって、言い負かしたのは、あの時が初めてだったかもしれないな。
 その事を思い出したのか、彼は一人静かに笑った。
「まぁ、喧嘩もしたけど、自分が悪いと思ったら素直に謝ってたし、本当に心から謝れば、両親は必ず許してくれた」
 そういうものなんじゃないかな。親って。
 光一さんは、窓に映った私達を見ながら、そう言った。



「やまないねぇ」
 菜々は、膝の上に載ったリンゴの頭を撫でて、何度目かの同じ言葉を口にした。
 リンゴは目だけを上げて、菜々の表情を見る。
 部屋から持ち出してきたクッションに座る菜々と、その膝に頭を置いて寝そべるリンゴ。
 二人……一人と一匹の待ちぼうけも、長期戦の様相を呈してきた。
 辺りの闇は深さを増し、先程から玄関と門扉に灯りが灯っている。
 しかし雨は幾分、小降りになりつつあった。
「まだかかりそうだしねぇ」
 先程兄の部屋の前を通ったとき、ドア越しに聞こえてきた泣き声を思い出す。
 兄がどんな気持ちで、その涙を受け止めているのか。
 それを思うと、菜々は少し複雑だった。
 不意に、リンゴが耳を起こし、体を上げてじっと門を見る。
「どうしたの、リンゴちゃん。お客さん?」
 リンゴは応えない。
 やがて遠くからエンジンの音が近づき、門の外の濡れた路面を車のヘッドライトが照らした。
 だが、車は通りすぎることはなく、手前でエンジンを止め、やがて路面の光も消えた。
 後に残されたのは、元の静かな雨音と、門灯で切り取られた夕闇だけ。
 程なくして、その門灯の明かりの中に、傘を持った一人の人影が現れた。
 人影はそこで立ち止まり、じっと菜々の……相原の家を見上げる。
 人影も、リンゴも、そこから動かない。



「解り合えていたつもりで……全然、解ってなかったんでしょうか」
 私はぽつりと、口にする。
 父との衝突を避け、自分をどこか抑えて従ってきた自分。
 その姿をありのままの私と勘違いし、信じていた父。
 結局私は、優しい繭の中で眠り続け、羽ばたくことを忘れた蛹だったのかもしれない。
「人を理解するって、口で言うほど簡単な事じゃないと思うよ」
 どんなに解ろうとしても、解っているつもりでも、それが本当の相手の気持ちとは限らない。
 ……いや、相手の気持ちと必ずどこか違うから、大なり小なり、そこに隙間が生じる。
「その隙間を埋めようとして、話し合ったり、喧嘩したり、……キスしたり、するんじゃないかな」
 って、何かものすごく偉そうな言葉だよね。
 そう言って彼は頭を掻いた。
「……私と、光一さんは、解り合えているんでしょうか……」
 心細くなって、私は光一さんの体に手を回し、胸に強く顔を埋める。
「……わからない。僕の思っている深月さんと本当の深月さんは違うだろうし、僕だって、深月さんが思っている僕とは違う。その違いが、いつか僕たちの間に立ちふさがるかも知れない。でも」
 でも?
 聞き返す私の体を、彼もまた、強く抱きしめてくれた。

「僕たちなら、その壁もきっと乗り越えていける。そう信じている」
 光一さんは、はっきりと言ってくれた。
「……はい。私も、信じます。あなたが私を信じるように」

 大人が耳にしたら、何と陳腐な言葉だろうと笑うかも知れない。
 でもそれは、高校二年生の私達の、誓いの言葉だった。
 私達は互いの目を見つめ、そっと唇を重ねる。
 少しでも近づくために。
 少しでも解り合えるために。
 純粋に愛情だけの、長いキス。
 背後で遠慮がちなノックの音が聞こえても、
 ドアが少しだけ開く気配がしても、
 私達はしばらく、互いの体を離そうとしなかった。



 窓の外。
 門灯の光に照らされて、黒い傘が一つ、動かずにいる。
 ここからでは、顔はおろか姿も見えなかったけれど、私にはそれが父であると分かった。
「……帰ります」
 大丈夫? そういう光一さんの表情に不安はなく、ただ少し寂しそうなだけで。
 はい。私も、微笑んでそう答えた。

 また改めて御礼に伺います。
 お母様と菜々さんに御礼を言って、頭を下げる。
 生乾きの服の入った紙袋を手に、光一さんに従って玄関を出る。
 雨は止んでいた。
 五メートルも離れていない門の外に、父がまだ傘を差したまま、立っている。
 その姿を見ると、あれだけ泣いたはずなのに、まだ涙が出てくる。
 気がつくと、駆けだしていた。
 体当たりをするように父の胸に飛び込み、たたらをふんで父の傘がひっくり返り、道に落ちる。
 ごめんなさい、お父様、ごめんなさい、ごめんなさい。
 必死で謝る私を、父は優しく受け止めてくれた。

 ……そういえば、父に抱きしめてもらったのは、いつ以来だろう。

 ひとしきり泣いて、私は背後を振り返った。
 いつのまにかリンゴは私の傍らに座っていたが、光一さんは玄関の前に立ったまま、こちらを見ていた。
「……彼が相原君かね」
「……はい。相原光一さんです。とても良くしていただいています」
 私は父に、はじめて光一さんを紹介した。
 父は門の外で軽く頭を下げ、光一さんも玄関前で黙礼を返す。
 五メートルもないこの距離が、今の二人の、精一杯の距離なのだろうか。
 父の手が私の背中を押す。
 私とリンゴは、再び玄関まで戻り、光一さんと菜々さんにもう一度、御礼をする。
「本当に、ありがとうございました」
「うん。……また喧嘩したら、いつでもおいで。待ってる」
「リンゴちゃんも一緒にいらっしゃい」
 アーアー。リンゴは甘えた声で菜々さんに応えた。
「それじゃ、また明日。学校で」
「はい。また明日」



 私は助手席に座り、雨の上がった夜の街を眺める。
 左隣では父がハンドルを握り、後ろではリンゴがおとなしく座っている。
「お父様お一人でいらっしゃってたんですか」
「……こんなみっともない姿を、家の者に見せられなくてね」
 父の言葉は不機嫌を装ってはいたが、それでも娘と二人きりの初めてのドライブを楽しんでいるのが分かる。
 運転手なら通らない、遠回りの道を運転しながら、父はいつになく饒舌だ。
「……近いうちに、彼を家に招待なさい。今日の御礼もある」
 やはり不機嫌そうな言葉に、私は耳を疑った。
「お父様……」
「深月の友達に、私も挨拶をしておきたい」
 友達、にわざとアクセントを置いて、父は付け加える。

『ごめん、深月さんが来た後、僕がお父さんに電話をしたんだ。心配するといけないと思って。落ち着いたら必ず送っていくって言ったんだけど……でも、心配で待ちきれなかったんじゃないかな』

「お父様?」
「……なんだい。深月」
「私は……深月はずっと、お父様の娘ですよ」
「……」
 何を当たり前のことを。
 そう取り繕ってはいたが、父の声は少し湿っぽくて。
「こら、リンゴ。もうすこし大人しくしていなさい」
 とばっちりを食らったリンゴは、くぅん、と恨めしげに鼻を鳴らした。











 都内の某私立大学。
 名門校といわれる総合大学で、都市部と郊外にあわせて4つのキャンパスを持っている。
 そのうちの一つ、主に理系の学部が集まるキャンパスのラウンジで、僕はある人物を待っていた。
「君が、相原光一君?」
 待ち合わせの時間から僅かに遅れて現れた男は、ぼろぼろのジーンズにくたびれたシャツ、薄汚れた白衣にメガネ、サンダル履きという、僕の予想とは少し離れた人物だった。
 とても名家の子息とは思えない出で立ち。
 ふとよぎったそんな考えを何となく感じたのか、彼は無精髭を撫でながら笑って言った。
「出発の準備で色々忙しくてね。なかなか家にも帰れない。
 ……どんな男を想像していた? 全身ブランドに身を包んだ長身のイケメン俳優みたいな男?」
 "いえ、そういうわけでは。すみません。"
「最初から非を認めるのはよしたほうがいい。まかりまちがえば恋敵になっていた男相手ならなおさらだ。これから君が付き合うことになる家には、相手の揚げ足を取るのが上手い人間が多いからね。さて、忠告はこのくらいにして」
 彼はウェイトレス(大学の食堂なのにそんな人がいる)にコーヒーを注文し、
「折角来て貰ったんだけどあまり時間がないんでね。手っ取り早く本題に入ろう」

『君は、祇条という家のことについて、どのくらい知っている?』
 祇条家は、輝日南市きっての名家であり、また資産家でもある。きびな池の半周を覆う広大な敷地を所有している。
 祇条家に生まれた女性は名家の子女にふさわしい教育を受けて、多くの場合生まれたときに定められる、名家の許嫁の元へ嫁いでいく。
 それが、僕の知っている祇条家という存在だった。

「なるほど。輝日南の人間ならだいたい知っているごく一般的な知識だね。最後のは、深月さんとの交際で知った情報かな。まぁ僕自身がその、生まれたときに決められた名家の許嫁ってことだね」
 なるほど、ともう一度繰り返し、彼は運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れた。
「じゃぁ、遠回りになるけどまずは、輝日南市の郷土史の話から始めよう」
 "郷土史、ですか?"
「そう。祇条家の歴史は、輝日南の歴史でもある」
 輝日南という地名は、そのまま輝く太陽の南、日照に恵まれ豊饒(ほうじょう)の約束された地、という意味からつけられた名前らしい。少なくとも平安時代中期にはその名前が資料に出ている。
 その輝日南を古くから領地としていたのが、神職にある祇条の家だ。
 祇条の娘は神につかえる巫女として、主に豊作を約束するための様々な神事を取り仕切っていたらしい。干ばつの時なんか、巫女が人柱になったなんて結構悲惨な話もあったみたいだけど。
 土着の太陽信仰が大本にあるらしいから、御祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)だったのかな。あと水神にも縁が深いらしくて、お遣いとしてカエルを祀っていたって話もある。輝日南市って、なんか気味の悪いカエルのマスコットがあっただろ? 輝日南ガエルだっけ? あれも元をただせば由緒正しい水神様のお遣いってことだね。
 ただ、明治時代末期の神社合祀で神職としての祇条の存在はなくなり、資料も散逸してしまって詳しいことはわからないらしい。
 繰り返しになるけど、『輝日南は昔、祇条家が管理する神領だった』訳だ。
 ただ、ここで一つ疑問が生じる。例え神に捧げられた土地とはいえ、豊かな収穫をもたらす土地がなぜ、長い間外部の権力者の手から独立を保ってこられたのか。
 そこに、祇条家のもう一つの側面が絡んでくる。
 外からの独立を保つために祇条家がとった方法。それは、権力者との血縁関係を作ることだった。
 中央の権力者に祇条家の娘を輿入れさせ、その威光によって輝日南を外敵からの侵略から守る。これが、君の知っている『祇条家の娘』のルーツというわけだ。
 "それってつまり、政略結婚、ていうことですよね?"
「そうだね。目的が輝日南の安泰のためだったのか、それとも祇条家の支配のためだったのか、それは分からない。だが、結果的にその戦略は当たり、輝日南は戦乱の世を経ても争いに巻き込まれなかった、数少ない土地になった」
 "……でも、今じゃ輝日南もただの一地方都市じゃないですか。
 そんなしきたりが今も続いているって言うのは、祇条家の地位を高めるために、娘を差し出してるってことですか?"

「話を焦りなさんな。今じゃ祇条家は押しも押されぬ名家だよ。うちの家だって元はどうだか知らないが、今じゃ名前だけで食ってるような旧華族で、祇条家とは月とスッポン。うん、相手が深月さんだから、僕がスッポンてのは我ながらいい例えだな」
 "うまいこと言ってないで、続きを教えてください。政略結婚じゃないってことですか?"
「そう。祇条家の戦略が当たりに当たったものだから、そのうち逆の発想が生まれてきたのさ」
 祇条家の外交戦略は恐ろしく的中していく。いくつかの歴史の転換点を経て、時の権力者がころころと入れ替わる中、祇条家は常に権力者との関係を絶やすことはなかった。
 そのため、一つのジンクスが生まれる。
 『祇条の娘が嫁いだ家は、繁栄が約束される』
 祇条家に時勢を見る目があるからなのか、実際に祇条の娘に特別な力があるのかは、卵が先か鶏が先か、という話になる。ともかくそんなジンクスを信じて、多くの権力者が祇条家から嫁をもらおうとやっきになった。中には娘がいなくても『次に生まれる女の子は是非わが家に』なんて申し込む家もあって、そういう意味では祇条家には『生まれる前から嫁ぎ先の決まっていた娘』っていうのもいたことになるね。
 "……政略結婚の次は、幸運のお守り扱いですか?"
「そう怒るなって。気持ちはわかるけどね。ただ、僕が言うのも何だけど、親の決めた顔も知らない相手と結婚するってのは、一昔前まではごく普通だったことなんだよ」
 "そりゃ、そうなんでしょうけど……僕と深月さんは、今の時代の人間ですから。"
「その通り。話を進めていいかな。昔話はおしまいだ」

 権力者ってのはわりと貪欲な人種でね。一人で駄目なら二人三人、って事を考える輩も出てくる。
 恥ずかしながら、うちの先祖のことなんだけどね。
 うちの家はいつの時代からか、嫡男の嫁を代々祇条家から迎え入れることになっている。確かうちの曾祖母が祇条の本家の出身で、僕の祖母も母も祇条の分家の人間だ。だから、顔もしらないといっても、深月さんと僕は何らかの血縁関係にある。そこまでして結局、権力を手にすることは一度もなかった訳だから、むしろ輝日南の神様の罰があたったんだろうね。多分。
 でも、時代は変わった。
 政治家が国民に選ばれて、パソコン少年が大金持ちになる時代だ。権力なんてものに執着すること自体がおかしいし、何より同じ血縁の家から代々嫁をもらうというのは倫理的にも、遺伝学的に見ても問題がある。
 受け入れる側も、送り出す祇条家の側も、みんな何かがおかしいと思っていたんだ。だが、伝統って奴はなかなか難しくてね。一度決めてしまった事をひっくり返すのには勇気がいるし、当事者が言い出さないことには問題にしづらい事が多い。つまり、
 "つまり、何ですか。"
「分かるだろう。今回の騒動は、まさに格好の問題提起だったって事さ。大騒ぎしているように見えるかも知れないけど、その実、心のどこかでは過去の因習から解き放たれてほっとしているのさ」
"……あなた自身も?"
「おいおい、それを本人に聞くのは残酷だよ。今僕が何を言っても、許嫁を取られた男のひがみにしか聞こえないだろう?」
 "そうですね……すみませんでした。"
「謝るなって。だが、同時に今回の件を、君と深月さんの二人だけで成し遂げたと勘違いしないことだ。深月さんと君の勇気には敬意を表するが、うちと祇条家のみんなが君たちのことを認めたから許された事なんだよ。それを忘れないように」
 "はい。……あなたにも、許して貰えたからですね。"
「僕のことはどうだっていいさ。むしろもう少し一人でいられて清々している。……おっと、これこそひがみかな。さて、」

 彼は時計を見て、席を立った。
「折角きてもらった事だし、もう少し話しもしたいところだけど、そろそろ時間なんだ。悪いけど失礼させてもらうよ」
 そう言って、伝票を手に立ち去ろうとする彼を、僕は呼び止める。
 "あの、最後に一つ、いいですか?"
「ん? なんだい。手短に頼むよ」
 "どうして今日の話を僕に?"
「そうだな。この話を知っていた方が今後、祇条の人間と関わるときにやりやすいだろうと思ったから」
 "……そのためにわざわざ?"
「君をこちらまで呼んだのは悪かった」
 "いえ、そういう意味ではなくてですね。
 ある意味あなたに恥をかかせてしまった僕を、わざわざそこまで心配して頂いたのかなと。"

「……君たちの大胆さが羨ましかったからかな。
 僕自身、今まで恋愛経験が無い訳じゃない。でも、そのたびに許嫁がいるからという事で僕は逃げてきた。ひどいときには、相手を振る理由にも使った。
 君と深月さんは僕の為し得なかった事をやってのけた訳だ。それが羨ましいし、今まで自分が逃げてきたことを恥ずかしく思った。
 できることなら、自分の恋愛をやり直したいとも思う……もう無理かもしれないけどね」
 "無理じゃないですよ。むしろこれからじゃないですか。"
「ありがとう。まぁ、そんな訳だ。答えになったかな?」
 "はい。本当にありがとうございました。結婚式にはかならずご招待します。"
「……どの面下げて出席しろっていうんだ、全く。薄々気がついていたが、君はかなり人が悪いな」
 "よく言われます。"
「深月さんを困らせるなよ。じゃぁこれで。君も、深月さんも、元気で」
 はい。あなたも元気で。留学の無事を。「ありがとう」

 そう言って、彼は去っていった。
 汚れた白衣をひるがえし、サンダルを鳴らして廊下を走り去っていく。
 その様子を見送りながら、僕は今まで顔も知らなかったライバルに、軽く頭を下げた。







初出
2006年7月11日●*kimikiss*Mituki_title"祇条深月編「あまやどり 〜祇条家秘話〜」”






あとがき/にゃずい

二編からなる祇条深月編は、今までの物語と違い世界観を広げるためのものである。
ゲーム本編での深月の物語には謎が多い。そこはユーザーにお任せの部分なのであろう。
それゆえ、このようなお話が作られる事もある。妄想が作品の穴を埋めるのだ。
キミキスは特にその傾向が強く、ユーザーと共に作っていくといった感じがあった。

今回登場する人物は、深月の父親と元婚約者である。
一体どんな人たちなのだろう?といったプレイヤーの想いに答えるべき物語だ。
前回のなるみ編以上に、深月編は脇を固めるお話である。
キミキスというゲームの中で、相原光一にとって最も過酷な道になる彼女との未来。
それを少しでもユーザーが埋めていければ…そんな答えになると思っている。




2010/4/10



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2010.04.10 Saturday :: - :: -