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小説:●*kimikiss*Narumi 「麺とスープの相性」

キミキスショートストーリ-ズ・第5巻 里仲なるみ編
●*kimikiss*Narumi

麺とスープの相性


里仲なるみ編
キミキス c2006 ENTERBRAIN,inc.
 
 その子は、店に現れたときから目立っていた。
 見かけは中学生くらいの、小柄な女の子。誰かと一緒という風ではなく、たまたまこの店にふらりとはいったという事もない。なにせ炎天下の中、この時間でも10分以上は並んでいるわけだから。
「支那ソバひとつ」 カウンター席に座った彼女は、水を出した俺にさっさと注文した。水を一口、口にふくんだ後、周りの客の様子をきょろきょろと観察している。
 と、そこまで彼女を観察していた俺は、店長に後ろから無言で頭をはたかれた。慌てて自分の作業に戻る。うちのラーメンを求め、外に客が並んでいる以上、いや目の前で客が待っている以上、ぼさっと突っ立っている暇はない。厨房は常に戦場である。

 今の日本で一番独立に近いベンチャーは何かと問われれば、それはラーメン屋の開業である、らしい。
 世はラーメン戦国時代。大都市の繁華街は言うに及ばず、この街のような衛星都市であっても二、三軒の店が互いにしのぎを削り、店前に並ぶ客の数を競っている。
 客の数という極めてシンプルな数字で店の評価が決まる、明確で冷酷なサバイバルゲーム。努力すればその分報われるという分かりやすい実力評価社会の中では、必要なものはやる気と体力と根性と舌。学歴も何も関係ない。実際大手のチェーンでは二十代の前半で店長として店を任される人間もいるというが、ただそれはやっぱり希有な例であり、俺達のような下っ端はいつか(支店であれ、独立であれ)一国一城の主となることを夢見て、ひたすら骨を洗い、カウンターを拭き、丼を洗い、薬味を刻む。
 そうやって俺達が厨房で汗水流している中、世間は夏休みということで虚ろな目をした男女が回遊魚のように平日の街中をうろついている。うちの店の前にもそうした連中が、飯時でもないのに情報誌の切り抜きと携帯片手に列を成しており、おかげでうちは商売繁盛、休む暇もない。

 鶏ガラ醤油ベースのスープに細い縮れ麺、上には海苔とチャーシューとメンマが載った、シンプルにしてうちの店の全てのベースとなる定番メニュー。
 冷房がほとんど効いていない店内でも湯気の上がる支那ソバを前にした例の小さな女の子は、まずレンゲを取り、スープを一口すすった。丼の上を見つめるように集中して、スープの味を確かめている。そしてもう一口。
 それだけで、この女の子がただの客ではないということが分かった。分かったが、だからといってどうこうする訳でもない。客は彼女の他にもまだまだいるし、仕事は片づけても片づけても次々に現れる。熱気の籠もる厨房で、俺はふたたび店長にどやされない様(店長に二度目はない)手元のネギと包丁に意識を集中した。

 が、偶然の運命という奴は結構身近なところに転がっているもので。
 彼女がスープを最後の一滴まで飲み干し、勘定を済ませようとしたところで事件は起こった。女の子は財布の底を見つめたまま、顔色を変えて黙り込んでいる。
 慌てて鞄の中身をあさり始めるが、必要なときに限って金というのは出てこない物で。
 女の子は今にも泣きそうな顔で、俺の顔を見つめた。



 十分後。
 女の子はうちの店の紺のTシャツとオレンジのバンダナを巻いて、洗い場に立っていた。
 金がないなら働いて返せ。一分一秒を争う中での店長の判断。それはこれから夕方のピークを迎えるに辺り戦力が増えるという反面、余計な仕事を増やすかもしれないというリスクを意味していた。
「里仲なるみです。今日一日お世話になります」
 そう言ってぺこりと頭を下げる女の子は、正直あまり頼りになりそうには見えなくて、夏休みで欠員が出てただでさえイライラしていた俺達下っ端は、今日というシフトに入ったことを半分後悔しはじめていた。

 だが一時間もしないうちに、彼女は自分の実力で周りの予想を覆す。
 一言で言って、彼女は手際が良かった。空いた席の食器を下げ、テーブルを拭き、食器を洗う。一連の作業の流れに無駄が無く、ともすれば古参の俺達の方がもたついているように思えることさえあった。
 客が次から次へと押し寄せるピーク時の雰囲気にも彼女は動じることはなく、確実に自分の仕事を片づけていく。不思議なもので、それだけで目に見て全体の回転がスムーズになり、店員全体に活気が出てくる。
「思わぬ拾い物かもしれんな」
 それは普段は仕事の鬼である店長をして、仕事中にそう言わせる程の変化で。
 その日の営業が終わる十一時、のれんを下ろし、後始末と翌日の準備が終わる頃には、皆が充実した疲労感を味わっていた。
 その余勢を駆り、今から飲みにでも行くか、なるみちゃんも呼ぶか、という状況で、
「おい、遼平。ちょっといいか」
 店長のお呼びがかかった。

『お前、家、輝日南だったよな。悪いが里仲を家まで送ってやってくれ。家には俺から事情を話してある』
 てっきりお説教かと覚悟していた俺に、店長はそれだけ言った。
 そんなわけで、俺と里仲なるみは輝日南駅に向かう電車に揺られている。
 平日の夜遅くということもあり、乗客はサラリーマンで六、七割といったところ。俺達は出口に近い椅子に二人並んで腰掛けていた。始終湯気の籠もる厨房で一日中立ちずくめだったこともあり、体中汗まみれ、足は棒のようだ。
 話を聞いたときまず、店長が里仲なるみのことをちゃんと名字で呼んでいることに驚いた。この店長、入って早々はお前・新入り呼ばわりしかせず、暗に実力を認めてからしか名前を呼ばない癖がある。彼女は今日一日、いやたった半日で、店長の眼鏡に適ったという事だった。
 次に、強面の店長がそこまでこの子に気を遣っていると言うことに驚いた。もっともこれは相手がまだ中学生の、しかも女の子だからということだろう。考えてみればうちの店は野郎所帯で、少なくとも自分が入ってからは厨房の中で女の子の姿を見たことがない。今日の店の活気にはそういう理由もあったという事か。

「あの……今里さん?」
 里仲なるみは恐る恐るといった様子で俺に話しかけてきた。店長には負けるが、俺もまた強面の気むずかしい奴という評価がついて回る男だ。
「何?」
「今里さんって、ひょっとして商店街のお蕎麦屋さんの……」
「あー……」
 自分は相手のことを知らないのに、相手は自分のことを知っている。
 一番苦手なパターンだ。
「……そうだけど」
 だがこちらの苦手意識など気にする風もなく、互いの共通点を見つけた里仲なるみは一気に打ち砕けた雰囲気で話し始めた。
「やっぱりー! 私、うどん屋の『里仲』の娘なんですよー」
「……悪い、俺、あんまり地元の事、よく知らないんだわ」
 半分本当で、半分は嘘だった。
 商店街の『里仲』といえば、遠方からも客の来る有名な讃岐うどんの店として俺も知っている。
 だがその程度で、実家の蕎麦屋とどのような付き合いがあるのかとか、そこにこのくらいの年の女の子がいるとか、そう言ったことには全く興味がなかった。
「そうなんですか……」
 里仲なるみはちょっとがっかりした表情を浮かべる。どうもこの子は表情が表に出やすいタイプらしく、その時の気分が一目で分かる。そういえば、洗い場で皿を洗っているときの彼女は、ずいぶんと楽しそうな表情をしていた。
「でも、よかったです! 家の近くにバイトしている人がいて! 明日からもよろしくお願いしますね、今里さん!」
「……明日からも?」
「はい! 私、夏休みの間あのお店でお世話になることになりました!」
 ……聞いてないぞ店長。



 駅に着いてからの帰り道、彼女は自分の事情をほぼ一方的に話し続けた。
 人の絶えた商店街は街灯だけが無駄に明るく、静かな道に彼女の明るい話し声がひどく場違いに響いている。
 私、うどん屋の娘で、うどんのことはずーっと見よう見まねで勉強してきたんです。
 でも、ある日ふと気がついたんです。
 本当にうどんを知るためには、その他の料理のことも知っておかないといけないって!
 だから、今年の夏休みはとにかく、麺類を食べ歩くことに決めたんですけど……
「タイミング良く小遣いが底をついた、と」
「ちっ、違います! うちに帰ればちゃんと残ってるんです!」
 里仲なるみは手をぶんぶんと振って言い訳をする。
 その仕草があまりに大げさで、俺は少しだけ笑った。その笑いを見て、さらになるみは顔を膨らませる。
「今日だって本当は、買い物帰りに一件だけ寄って、それで帰るつもりだったんです。」
 でも、その店が結構、期待はずれで……スープとかもほとんど残して出てきたんですよ。
 それで別の店の前を通りかかったら、なんだかいい匂いがして。
 なんかこれだっ! って気がしたんですよ。
 それで、いても立ってもいられなくて……
「で、無銭飲食をしてしまった、と」
「はい……その通りです。でもっ!」
 落ち込んだかと思うと急に復活して。彼女の表情は見ていて飽きない。
「ラーメンは大当たりでしたし、不幸中の幸いでバイトもさせてもらうことになりましたし!」
 なんか偶然の運命って、あるんですねー。
 なるみは幸せそうにそう言った。肩を並べて歩く半身がこそばゆい。

「じゃぁ私のうち、ここなんで」
 こぢんまりとした店の前で、なるみは足を止める。
 質素ではあるが年月の重みを感じさせる店。扉の奥には僅かに光が見え、家族の誰かが彼女の帰りを待っているのが見て取れた。
「明日もよろしくおねがいします、今里さん」
「ああ、おやすみ、なるみちゃん」
 思わず口にした言葉に、なるみはぽかんとする。
「……?」
「あ、いえ、なんか、家族以外の男の人に下の名前で呼ばれるの初めてで……」
「あぁ……いきなりごめん。名字の方がよかったか」
「いえ、なるみでいいです。おやすみなさい、今里さん」
 えへへ、と笑って、彼女はぴょこんと頭を下げ、店の奥に消えていった。
 その仕草はまるで名前を呼ばれて喜ぶ子犬のようで、見ていて微笑ましかった。

 ……明日からのバイトは楽しくなりそうだ。
 柄にもなくそんなことを考えながら、俺は重い足を引きずって自分の寝床に引き上げた。



「いやぁ、なるとちゃん様々だよねぇ」
 まだ表の明るい早い時間、なるみと俺と三人でまかないを食べていた席で、先輩店員がそう呟いた。
 店の裏通りに、ぼろい椅子やひっくり返したビールケースに座ってまかない飯を食う俺達を、道を行く人々がちらちらと見て通っていく。
「なるとちゃんが来てから店の野郎共が目の色変えて張り切るようになったもの。なぁ、遼平」
「そうッスね」
 俺は具だくさんのラーメンをすすりながら答える。これから夜にかけてが正念場なので、食っておかないと夜まで保たない。
「やだぁ、そんなこと言われると、照れちゃいますよぅ」
 なるみは箸を片手に頬に手を当て、にこにこと照れてみせる。彼女はご飯の上に具を載せ、スープを別にして食べていた。その方がスープ自体の味がよく分かるのだそうだ。
「いやホントホント。なんかこう、店全体が勢いに乗ってるって感じだよなぁ」

 実際、なるみは大活躍だった。
 家の都合で、店で働くのは夕方から夜にかけてのピークタイム限定だったが、それでも彼女の存在は非常に大きい。先輩の言うとおり、彼女がいるだけで店がスムーズに動き、そのせいか店の行列は一週間で倍に伸びている。
 仕事だけではなく、なるみは店の看板娘としても(店の内外を問わず)人気者だった。ラーメン屋だけに『なると』という愛称が定着し、今ではなるみ目当てで店に来る常連客まで出始める始末。
「なるとちゃん、五目乗せ一つちょうだい」
「はーい、五目一つおねがいしまーす!」
「今日もかわいいねぇ、なるとちゃん」
「えへへぇ、ありがとうございますー」
 常連客のちょっかいのあしらい方も大したもので、しつこい客にも決して捕まることはない。……もっとも、そんな不作法な客は次から必ず、いかつい野郎共が対応することになるが。

 恩恵を被っているのは店の売り上げだけではない。
 中で働いている俺達も、雑用が楽になったおかげで、次のステップの仕事を盗むなり任されるなりする機会が増え、従業員全体のスキルもやる気も目に見えて上がっている。
 なるみもまた、仕事のちょっとした切れ目をねらって(本来の目的である)店の味について色々見聞きし、自分なりに調べている様子だった。スープや味付けについての門外不出の部分も、彼女ののぞき見なら店長も大目に見ていた。俺達なら「まだ早い」の一言か、あるいは拳骨一発で追い払われるのに、それが少し悔しい。

「ところでさ、なるとちゃん。今度の定休日、暇だったらどこか遊びに行かない?」
 そんなことをぼんやり考えているうちに、話題は別の事に移っていた。
「親睦を深める意味でも、みんなでどこか遊びに行こうかって。行き先は海でも遊園地でも、なるとちゃんの好きなところでいいからさ」
「えぇっ、定休日って……水曜日ですよね? どうだったかなぁ……」
 先輩のテンションとは裏腹に、なるみの反応はあまり芳しいものではなかった。考えるようなそぶりをしつつ、さりげなくこちらの様子をうかがっている。
 最近俺は閉店作業を免除され、彼女を家まで送り届ける仕事を店長直々に言いつかっていた。おかげで周りは俺のことをなるみの保護者のように扱いだし、彼女もまた何かあるとまず俺を頼りにしてくる。急に妹ができたようなもので、仕事の上で頼りにされるのは嫌ではなかった。
 しかしそれも時と場合による。特にこういう場面では。
「若い連中からもなるとちゃんを誘ってくれってせっつかれていてさぁ。ほら、お前も遊びたいだろ、遼平?」
 なるみが俺にくっついていることを計算した上で、先輩は俺のことも巻き込もうとする。俺がそういう集団での付き合いを極力避けていることを知っているくせに。
 一番遊びたいのはお前じゃないのか、と心の中で呟きながらスープを飲み干し、そうっすね、と適当に答える。
「うーん……今里さんが一緒なら、行ってもいいかな。」
 そんな俺の反応をどういうニュアンスで受け止めたのか、なるみは少しはにかんで答えた。
「マジ? やった! じゃあどこ行きたいか考えといてね」
 彼女のオッケーが出て先輩のテンションは大いに上がり、そのままの勢いで職場に戻っていった。
 そしてその場に残される二人。休憩時間はまだ少し残っていた。
「……良かったのかよ。家のこととか、友達とか、宿題とか、色々あるんじゃないのか?」
 声がなぜか不機嫌になってしまう。
「大丈夫です! 友達は一緒にさそえばいいし、家も一日くらいなら大丈夫ですから。宿題はもともとやる気、ありませんし」
 なるみはぺろりと舌を出す。いつも通りの表情。
「ならいいけど……あんまり無理すんな。体もまだ慣れてる訳じゃないし、無理なら断ればいいんだから」
「だぁいじょうぶです! まだまだ若いんですから!」
 なるみは細い腕で力こぶを作って見せた。



 人に自慢できることではないが、俺には一つだけ特技がある。
 悪い予感は決して外さないという、起こってしまった後では何の役にも立たない特技。

 翌日の夜、なるみは厨房で倒れた。
 丼の割れる派手な音に、店員も客も一斉に音の出所を見つめる。倒れると言うよりは、貧血を起こしてへたり込んでいたという状況で、なるみはぺたんと尻餅をついて頭を下げていた。
 派手な音とは裏腹に、狭い厨房の中でどこにも体をぶつけた様子はなく、それが不幸中の幸いだった。
 一番近くでチャーシューを切っていた俺はとっさに持ち場を離れ、彼女を抱えて事務所に向かう。周りのことなんて全く目に入らなかった。
 彼女の体は驚くほど小さく、そして軽かった。
「あ……今里さん……ごめんなさい。大丈夫です。一人で歩けます……」
「大丈夫な訳あるか、馬鹿」
 二十歳前後の俺達でさえ、一日いれば熱中症でぶっ倒れてもおかしくない職場だ。それを彼女はこの小さな体で元気いっぱいに乗り切っていた。
 誰にも疲れの色を見せずに。……小さいなりに、自分の立場の重さを理解していたのだろうか。
 事務所のソファに寝かせて、とりあえずエアコンのスイッチを入れた。
 業務用のでかい冷蔵庫の中から誰かがしまい込んでいた大瓶のスポーツドリンクを取り出し、コップを探したが近くには見あたらない。
「飲めるか?」
 彼女の体を少し起こし、ペットボトルの口を近づける。だが、ドリンクはほとんどこぼれてしまい、彼女のTシャツを汚しただけだった。
 その時とっさに取った行動は、後から思い出しても自分でも理解できない。
 俺は自分の口にドリンクを含むと、彼女の唇に自分の口を重ねた。僅かにグレープフルーツの味がするドリンクを、ゆっくりと口移しに、なるみに飲ませてやる。全て移し終えると、今度は二口目。
 最初驚いた目をしていたなるみも、二口目を飲ませるときには大人しく、何故か目を閉じていた。
 腰にかけていたタオルで、汚れた口元と胸元を拭いてやり、再びソファに横にしてやる。
  ……ようやく意識が体に追いついてくる。
 そこまでの一連の動作は、全て頭より先に体が動いていた。
「……大丈夫か? どこも怪我とか、してないか?」
 テーブルに座り、なるみの顔をのぞき込む。
「大丈夫です……ごめんなさい、ちょっとふらっときちゃって」
 申し訳なさそうに微笑むなるみ。その笑顔に普段の元気はなかった。厨房はあんなに暑かったはずなのに、顔色は青い。
「気にすんな。誰も迷惑なんて思ってないから」
 冷たいおしぼりか何かで体を冷やした方がいいだろうか。それになるみの状態を報告しておかないと。俺はそう思い、厨房に戻るために立ち上がろうとした。
 その俺の手を、なるみが弱々しい力で握っている。
「……」
 何も言わず、おおきな目で俺を見上げている。
「……大丈夫だよ。すぐ戻る」
 そう言って安心させようとしたが、なるみは俺の手を離そうとはしなかった。
 どうしようかと思っているうちに、店長がようやく事務所に来た。
 店長は真っ先になるみの体調を気遣った後、おもむろに俺の頭をぱかん、と叩く。
「済みませんでしたっ」
 持ち場を勝手に離れたことをどやされるのだろうと思い、先に頭を下げる。しかし、
「……包丁が出しっぱなしだった。落として誰か怪我したらどうする」
 店長の小言はそれっきりだった。

 俺と店長は、裏口の前でなるみが出てくるのを待っている。
 まだ時間は早かったが、今夜は大事をとってなるみは上がることになった。
 付き添いで俺まであがることになると、店の回転が心配なのだが、
「気にすんな。文句を言う奴がいたら店員だろうが客だろうが、俺がぶん殴ってやる」
 店長は少し笑って、そう言った。
「……すみませんでした。俺がちゃんと、彼女のこと気遣っていれば……」
 頭を下げると、店長は驚き、そしてにやりと笑った。この顔で笑われると、時にそれは怒りの表情よりも凄みがある。
「いっぱしの保護者気取りか? ……お前が心配する事じゃない。今日のことは、責任者の俺のミスだ」
 そう、はっきりと言い切った。そして付け加える。
 ……全てがうまくいったいったもんだから、なるみに頼りすぎたのかもな……
 それは、俺が店長から初めて聞く、後悔の言葉だった。
 俺が言葉に詰まったタイミングで、裏口からなるみが現れた。
「お待たせしました……店長、今日は本当にすみませんでした」
 なるみはまだ全快とまではいかないものの、歩く分には問題なさそうだった。申し訳なさそうに、店長にぺこりと頭を下げる。
「気にするな。こっちも無理させて悪かった。軍平さんには改めて謝りにいくと、伝えておいてくれ」
「いいですよぅ、おじいちゃんのことは。それじゃ、お先に失礼します」
「おう。何なら明日も休んでいいからな。無理はするなよ」
 聞き慣れない名前に気を取られたが、あわてて自分も挨拶をする。
「……っと。俺も失礼します」
「お前は明日もこき使ってやるからな。せいぜい覚悟しておけ」
「……うっす。望むところです」
 店長はとびきり恐ろしい笑顔で俺を送り出した。



 駅から『里仲』へ向かう道。
 夏場の湿った空気は肌にまとわりつくようだったが、それでも厨房で熱気に晒されていた俺達からすれば風のある分、天国のようだ。
 今夜は比較的早い時間帯なので、まだ開いている商店も多く、勤め帰りの会社員など、人の行き来もまだそこそこあった。
 だから、おんぶされて道を行く女の子の姿は、それなりに人目を惹く。
「大丈夫ですよぅ……下ろしてくださいよぅ」
「駄目だ。大人しくしてな」
 俺の背中に背負われたなるみは、最初こそ嫌がっていたものの、やがて諦めたのか大人しくなった。
 今では体を背中に預け、俺の首に両手をしっかり回している。
「……重くないですか?」
「全然。もうちょっと食べて、おっきくなった方がいいぞ。……俺の方こそ、汗くさくないか?」
「……ふふふ。汗とスープの匂いがします」
 何が嬉しいのか、なるみはさらにぺったりと、背中にしがみついてきた。
「……私、ずっと一人っ子だったんです」
 俺は黙って、次の言葉を促す。
「……すごく仲のいい友達に、お兄さんがいるんですけど、とっても仲が良くて。二人を見るたびに、私もお兄ちゃんが欲しいなぁ、って、ずっと思ってたんです……」
 えへへ。なるみは俺の背中で、幸せそうに笑う。
「こうしているところ、他の誰かが見たら、私達のこと兄妹って思うかな……それとも……」
「……親子とか思われたら、ちょっとショックだな」
 俺は滅多に口にしない冗談を言って、その場の雰囲気から逃げた。
「……それって、今里さんが親父臭いって意味ですかー?」
「なるみちゃんが幼すぎる……ぐぇ、ギブ、ギブ」
 首を絞めるなるみの腕をタップして降参する。そんな俺達を、道行く人は微笑みながら見送っていた。

 やがて、『里仲』の前に着く。
 店の前では丁度、白髪の老人がのれんを下ろしているところだった。
 のれんを手に振り返った老人は、丁度立ち止まった俺達に気がつき、向かい合う。
「……おじいちゃん」
 背中のなるみが、そうつぶやいた。



 『里仲』は、座敷が二間とテーブル席がいくつかある、こぢんまりとした店だった。
 讃岐うどん専門店、という呼び方より、うどん屋とか、街食堂といった方がしっくり来る雰囲気。古びてはいるが手入れの行き届いた店内は、持ち主の性格をそのまま表しているようで、初めて入るはずの店なのにどこか懐かしい雰囲気を感じさせる。
 その店内で、俺はテーブル席に一人座っていた。厨房の奥では老人が、落としたはずの釜の火を入れ、麺を茹でる準備をしている。
 わざわざ俺一人の為に、と断ろうとしたのだが、
「店閉めてる最中に酔っぱらいが入ってくる事なんかしょっちゅうや。それに、孫娘を届けてもろて、礼のひとつもせんと追い返す訳にもいかへんし」
 そう言われると無下に帰ると言うわけにもいかず、こうして俺は居心地の悪い沈黙を味わっている。

「なんや、店の者に送らせる言うから誰や思たら、今里の坊主か」
 白髪の老人……なるみの祖父、里仲軍平の第一声がこれだった。
 俺は里仲家の人間と、知らないところで余程縁があるらしい。
「おじいちゃん、今里さんのこと知ってるの?」
「知っとるも何も、小ちゃい頃たまに遊びに来とったやないか……」
 ……ほうか、二人とも覚えとらんか。キヨハルの生きとった頃の話やもんなぁ。
 尻すぼみに、軍平さんは誰にともなくそうつぶやいた。眼鏡の奥の視線が少し遠くを見ていた気がした。

「あの……キヨハルって、俺のじいさんの事ですよね」
 厨房の奥に声をかける。
「うん? ……あぁ。そうや」
 今里清治。小学生の頃に亡くなった、俺の祖父。
 先代の『今里』の店主にして、料理長。……もっともそんな肩書きよりは、蕎麦職人という呼び方がよく似合う、頑固一徹、絵に描いたような江戸っ子だったらしい。
 らしい、というのは、それが近年亡くなった祖母や、当時祖父の元で働いていた職人らから聞いた話の中での事だからで。
 子供の頃の俺にとっては、祖父はひたすら孫に甘い『じぃちゃん』だった。
 幼稚園や小学校から帰るとまず祖父の仕事場に駆け込み、邪魔にならない程度に(いや今思えば十分邪魔だっただろう)祖父の仕事ぶりを眺め、料理の真似事をさせてもらっていた。
 それが、俺の料理人としての原風景、なのかもしれない。
「奴とは、わしがこっちに出てきて以来の付き合いでなぁ」
 軍平さんは、手を動かしながら懐かしそうに語り出した。



 軍平さんがここに『里仲』を構えたばかりの頃のこと。
 近場にできたうどん屋を見に行ってやろうと、若かりし頃の祖父は職人仲間を連れてこの店を偵察に来たという。
 出されたうどんを一目見て、こんな白湯に醤油をおとしたような薄い出汁で本当に味がするのか等、祖父は文句たらたら、しばらくは箸もつけない。
 それを聞いた軍平さんもまだ若かった。おたまを片手に厨房から飛び出して、ろくなうどんも食ったことの無い奴が偉そうな口を利くな、文句があるなら一口食ってからにしろと怒鳴りつけた。
 お互い喧嘩腰のまま、連れの職人がなんとか取りなす中、祖父はうどんを一口すする。
 両者無言の一瞬。だが勝敗は簡単に決した。
 一口食べるなり祖父は言葉を失い、一言も口にすることなく丼の底のつゆの一滴まで残らずすすり、仲間の職人があっけにとられる中、さっさと一人で帰ってしまったという。
「……あれはほんま、傑作やったで」
 その様子を軍平さんは、思い出すだけでもおかしいという風に話す。
 それからしばらくして祖父が『今里』の店を継いだ時。
 店の品書きからは、それまで出していたはずのうどんが、一品残らずなくなっていたという。

「まぁ、キヨハルがわしを全面的にみとめたんは、それが最初で最後やったけどな」
 そう言いながら、軍平さんは湯気の立つ丼を手に、厨房から出てきた。
 関西風の薄い色の出汁に、太い麺。油揚げと蒲鉾が一枚ずつ載った、シンプルなきつねうどん。
 頂きますと礼を言ってまず、つゆを口にする。薄味だがしっかりと出汁の利いた味。関西風の味付けがまだ珍しかった頃、祖父もまたこのうどんを味わったのだろう。そして一体、どんな衝撃を受けたのだろうか。
 こしの強いうどんを無言で味わう俺の前で、軍平さんは祖父の話を続ける。
 軍平さんと祖父はその一件以来、なにかにつけて喧嘩をしながらも、誰よりも仲良く付き合っていたらしい。
 店のこと。味のこと。跡継ぎのこと。二人は悩みや相談事があるたびに、閉店後のこの小さな店で酒を酌み交わしつつ、夜遅くまで話し合った。
 ……友人として、ライバルとして、そして対等な立場の職人として。
 関西弁で語られる祖父の名前は、今まで俺が知っていた祖父の姿とはだいぶ違っていて。
 今まで知っていたどの姿よりも、ずっと料理人として生き生きと輝いて、俺の胸に伝わってきた。



「……ごちそうさまでした」
 俺は祖父と同じように、つゆの最後の一滴まで飲み干し、箸を置いて手を合わせた。
 うまかった。
 このうどんを表現するのに、それ以上の言葉はかえって失礼な気がした。
「……ラーメン、やっとるんやて?」
 淹れてもらったお茶をのみ一服する俺に、軍平さんはさりげなく話を向けてきた。
「はい。まだ修行中ですが」
「ほうか」
 軍平さんは短く答え、しばらく間をおいた後、
「……蕎麦は、やらへんのか?」
 そう、尋ねた。
 俺はだまって、うなずく。

 『今里』は、父の代になってずいぶん様変わりした。
 庶民的な雰囲気よりも高級感を前面に出し、儲けを追い求め、店の数も増やしていった。その過程で、祖父の代からいた職人はほとんど『今里』を去っていった。
 俺もまた、父の拝金主義的な経営に反発した。形だけでも蕎麦の修行をしろという父の要求を断り、高校卒業と同時に家を飛び出し、縁もゆかりもないラーメンの世界に飛び込んだ。

 軍平さんはおそらく現在の『今里』の変わり果てた姿も知っていて、俺が今の店を継ぐつもりはないこともわかっているのだろう。
 ほうか、と口にして、彼もまた茶を飲んだ。
「もし……もしもやで。蕎麦でなければええっちゅうんやったら……」
 今までの老人の口調とは違い、その言葉には多少の迷いが感じられた。
「うどん、やってみる気はあらへんか?」
 職人として口を出すべきことではないと知りつつ、早くしてこの世を去った友人の孫に、どうしても口を挟まずにはいられない。そんな迷い。
 親友の跡を継ぐ気がないのであれば、せめて自分の元でという、親心なのだろう。
 俺はそんな軍平さんの気持ちが、素直にありがたかった。だが。
「……すみません。一度これって決めた道スから」
 それ以外、今の俺に答える言葉はなかった。
「……そうやな。いや、すまへんかった。分かり切ったことやったのにな」
 そう言って、軍平さんは頭を下げた。
 こんな駆け出しのひよっこを、職人として扱ってくれていることが本当に嬉しく、また申し訳がなかった。
「……この店には、なるみちゃんがいるじゃないスか。彼女ぐらいのしっかり者なら、『里仲』の将来は安泰っスよ」
 うーん、と、この老人にしては珍しく、腕を組んで考え込む。
「ああ見えてなるみはおっちょこちょいやからなぁ……。今日も調子こいて倒れたそうやないか」
 うちの祖父と同じで、孫、それも女の子とくれば扱いは別格なのだろう。堅物の職人にふさわしくない表情が微笑ましく、そしてどこか懐かしかった。
「昔の人間の偏見かもしれんけどなぁ。女の子ひとりに店任すちゅうんは、ちょっと頼りのうて……それからいくと、お前さんはその年でしっかりしてそうやし、なるみも何や憎からず思てるみたいやし……」

「お、おじいちゃん!」

 軍平さんの言葉に、あわてて飛び込んできたのは他ならぬなるみだった。
 緑色のパジャマ姿で、風呂あがりなのかおかっぱ頭がしっとりと湿っている。
「何やなるみ、いつから聞いとったんや」
「何してんだよなるみちゃん。寝てないと駄目じゃないか」
 二人で声を揃えてしまい、俺と軍平さんは顔を見合わせて少し笑う。
「だ、だって、たまたま遼平さんの声が聞こえて、おじいちゃんと何話してるのかなって……そんなことより!」
 なるみは赤い顔を上げて、軍平さんに怒鳴り散らす。
「おじいちゃん! なに勝手なこと言ってるの! 遼平さんに失礼だし、わ、わたしそんなこと考えてないもん!」
 軍平さんは慣れたもので、あー、何のことやー? と知らぬ顔。
 ……これくらい元気なら、もうなるみは心配はないだろう。



「すみません、おじいちゃんが引き留めちゃったせいで……」
 なるみはパジャマ姿のまま、店の前まで俺を送ってくれた。
「いや、いろいろ話せて良かったよ」
 こんなところで祖父の話を聞けるとは思わなかった。
 小遣いを忘れた少女のおかげでつながった不思議な縁に、なにか特別なものを感じずにはいられない。
「おっ、おじいちゃんの言ったことは気にしないでくださいねっ!」
 彼女の顔をまじまじと見ていたのを何か勘違いしたのか、なるみはまた顔を赤くしてごにょごにょとつぶやいた。
「気にしないって、何を?」
「いっ、いいんです! 気がついてないならいいんですっ」
 悲鳴にも似たなるみの声が、静まりかえった住宅街に響き渡る。
「それじゃ、おやすみ。その様子ならもう大丈夫とは思うけど、今日は早く寝て、明日も無理するなよ」
「はい、おやすみなさい」
 なるみはぺこりと頭を下げ、俺はいつものように背中を向けて歩き出そうとしたその時。
「あ……あのっ」
 振り返ると、なるみは頭をさげたままだった。
 ショートボブの髪が垂れ下がって、表情は見えない。
「す、スポーツドリンク、ありがとうございました……」
 なるみらしくもない、蚊の鳴くような細い声。

 何のことかと思い返し、
 自分がとっさにとった行動を思いだした。
 細くて軽い体のこととか、
 小さな唇の感触とか、
 思い出さなくていい事まで思い出してしまい、一気に顔が火を噴く。

「しっ、失礼しますっ!」
 返事をする間も与えられないまま、なるみはそのまま店の中へと駆け込んでいった。
 ……俺は呆然としたまま、それからしばらく、その場から動くことができなかった。


 夕方が近づいた頃から、駅前の広場には色とりどりの魚が目立つようになっていた。
 紺や白、ピンク、水色などなど。
 ひらひらとしたヒレを揺らしながら次々と駅の改札に吸い込まれていく彼女たちを、俺はベンチに座ってぼんやりと眺めている。
 いつもなら、厨房の中で汗みずくになって働き回っている時間。
 だが、今日は無理を言って昼で上がらせてもらった。一度寝床に帰ってシャワーを浴び、服まで着替えて出直してきている。
 ……海辺で行われる、今年最後の大きな花火大会。
 普段はそんなイベントも客の入りを予測する材料ぐらいにしか考えないのだが、今夜ばかりは俺自身もその当事者の一員になっている。
 慣れないシチュエーションで、居心地が非常に悪い。
 
 不意に目の前が温かい物で覆われ、視界が塞がれた。
「だーれだっ」
「……こんな事をするおこちゃまに知り合いはいたっけな」
 むー、と不満そうな声を上げ、目隠しの相手は手を離す。
 後ろを振り返ると、紺の浴衣に身を包んだ、ショートボブの小さな女の子。
 鮮やかな赤の朝顔を描いた浴衣姿に、一瞬だけ目を奪われる。
「……来てくれたんですね、遼平さん」
 


 なるみは夏休みを一週間残して、無事バイトを終了した。
 最終日の夜には店を閉めた後、ビールとジュースで簡単なおつかれさま会をやった。
 非番の連中まで集まってきたりして、本気で彼女が去ることを惜しんでいた。感極まって泣き出す奴や、酔った勢いで告白する奴もいたが、そういう手合いは他の連中に速攻で潰されていた。
 結局みんなで遊びに行くことはなかったけれど、彼女がまぎれもない店の一員だったことは、誰から見ても明らかだった。

 簡素な宴が終わり、軽くアルコールの回った頭でロッカーを開けると、そこには一通の封筒があった。
 ピンク色の可愛らしい封筒には、厳重に封がされた上で、『帰るまで絶対に開けないでください。話題にも出さないでください!』と、これまた可愛らしい字で書かれていた。
 なので、その日の帰り。
 二人で乗る最後の電車の中でも、俺は極めて平静を装い、そのことは話題には出さなかった。
 ……口数が少なかったのは多分、酔いが回っていたせいだろう。



 電車に揺られ、海岸の駅で下り、人の流れとは反対方向に歩くこと十数分。
 そこに、なるみが仕入れてきた「とっておきの場所」はあった。

 砂浜から海に突き出した突堤。ここは昔、遠くに見える人工島を埋め立てるための土砂を積み出す為に用いられていたものらしい。使われなくなってから久しいコンクリートの遺物は、人工の砂浜から櫛の歯のように幾本か、海に向かって突きだしている。
 普段ならこの時間、釣り人ぐらいしかいないこの場所は、今夜に限っては目端の利いたカップル達に占領されている。話に聞く京都は鴨川の河原のように、一つの突堤に男女が数組、きれいに一定間隔をおいて並んでいた。
 俺となるみもその一つに腰を下ろし、両足を投げ出して座る。
 なるみは下駄を脱いで、足を突堤からぶらさげようとしていた。貝で足を切るぞと注意すると、しぶしぶ足を上げ、足を開いてぺたんと女の子座りをした。
 浴衣姿であることにはあまり頓着していないらしい。浴衣の裾から覗く白く健康的な足から、俺は慎ましく目を逸らせた。

「まだ時間があるから、遼平さん、今のうちに腹ごしらえしときましょ」
 薄暮の中、俺達は来る途中の屋台で仕入れた数々の食べ物に飲み物を開いた。ソースの香ばしい匂いがあたりに漂い、隣のカップルが羨ましげにこちらを見ている。
 そんな連中に見せつけるように、俺となるみはたこ焼きや焼きそばなんかを平らげた。なるみは箸を俺の口に寄せて、無理矢理食べさせようとしたりする。わざと狙いを外すため、その度に俺の口元はソースと青のりで汚れていく。
 大して手間もかけていない、おおざっぱな味付け。
 それなのに、祭の屋台の食い物がこんなに旨く感じるのはなぜだろう。



 やがて辺りは闇に包まれ、海の彼方で光の宴が始まる。
 海沿いの港の灯りの沖からまず、一発の大玉が上がり、赤と青の光の粒子が、なるみの握りこぶしほどの大きさで弾けた。
 それを皮切りに次々と打ち上げが始まり、様々な光が夜空を舞いはじめる。色を変え、尾を引き、形を変えて。
 その度に時間を置いて、こんなに遠くまで衝撃が届き、耳と肌を振るわせる。
 俺となるみはしばらく無言で、空に咲いた光の花を眺めていた。
 
「……?」
 なるみはこちらを向いて言った言葉は、花火の音にかき消された。耳に手を当て、聞こえないとゼスチャーを送ると、お尻をもぞもぞ動かして、なるみは俺にぴったりと身体をすり寄せる。
「いい場所でしょう?」
 光の加減で彼女の顔が普段より大人びて見えて、鼓動が一度だけ、大きくなる。
 それが悔しくて、俺は花火を見上げたまま、あぁ、そうだな、とつぶやく。
 するとなるみは、今度は膝立ちになってすぐ耳元まで口を近づけ、
「聞こえないー」
 と笑って言った。耳にかかる息がこそばゆい。
「あぁ、最高の場所だよ」
 お返しになるみの耳元で囁いてやると、なるみはにへら、と笑った。
 膝立ちのまま俺の背中にもたれ、俺の頭のすぐ隣に顔を持ってくる。
 間近でみるより迫力は劣るかもしれない。けど、港の灯りや人工島の観覧車といった街の夜景の中で咲く花火の姿は、真下で見るのとはまた違った趣があった。何より人混みとは無縁なのがいい。
 花火は上がり続ける。
 二人きりで楽しむ、美しく贅沢な時間。
 だが、それもいつかは終わり、また元の静かな夜空が戻る。
 ……だから、終わりが近づけば近づくほど、俺の心は重くなっていく。
 すぐ隣にある無邪気な笑顔の少女に、これから伝えなければならないことを思うと。

「なぁ、なるみちゃん」
 花火もクライマックスに差し掛かり、大玉が連続して打ち上げられて切れ目無く光が暗闇に踊り続ける。
「なんですか、遼平さん」
 なるみは花火の音に負けまいと、両手を俺の身体の前に回し、顔をより近づける。
 隣の笑顔には疑いの欠片もなく、そのことが俺の胸をさらに締め付ける。
 俺は彼女の腕に手を重ね、言った。

「なるみちゃん……。悪いけど、俺は、君と付き合えない」

 それが、ピンク色のラブレターに対する、俺の答えだった。



 隣で笑顔が凍り付くのを感じる。腕を握る手に静かに力を込めて、身体を離そうとする彼女を止める。
「……聞いて欲しいんだ。いいかな」
 言い訳でも、自己満足といわれてもいい。
 俺は彼女にちゃんと理由を言っておきたかった。
 それが、彼女の想いに対する、不器用な俺の精一杯の誠意だった。

 なるみちゃん、俺は君のことが好きだよ。
 最初は妹ができたみたいで嬉しかったけど、今では女の子として、本当に魅力的に思っている。
 歳の事なんて関係ない。うどん職人を目指すなるみちゃんの一生懸命さは、大人でもなかなか真似できないと思う。
 でもね。俺はきっと、君のことは幸せにできない。
 なるみちゃんがうどんのことに一生懸命なように、俺も今、自分の人生を賭けて打ち込める物に出会って、その事しか考えられないから。
 なるみちゃんのことを考えながら、自分の為に努力できるほど、俺は器用じゃないんだ。このまま君とつきあっても、きっとなるみちゃんのことを苦しめてしまう。
 ……だから、ごめん。

 ぽたり。ぽたり。
 温かい雫が、俺の右肩を濡らす。
「……私がうどん屋だから駄目なんですか?」
「ううん……。きっと、二人とも爺さんに似て、頑固者の職人見習いだから、かな」
 なるみの肩を抱き、自分の胸で泣かせてやりたい衝動を、俺は必死に押さえ込んだ。
「……遼平さんが、うどん屋だったら良かったのに」
「そうだね」
 同じ方向を向いていればきっと、俺達は二人でその道を歩いて行けたんだろう。
 あるいは、自分の道を曲げてでも、相手に寄り添えるほど柔軟な生き方ができるか、
 全く違う道を進んでいても相手と手を繋いでいられる大人だったら。
 ラーメンのスープにうどんは入れられないように。
 うどんのつゆにラーメンの細麺は入れられないように。
 違っているのになまじ近すぎたから、だから。
「遼平さん……私のこと、嫌いになっちゃいますか?」
「嫌いになんて、なれるわけないよ……。こんなに似ていて、こんなに近くにいるんだから……」
 だから、苦しい。
 いっそ嫌いになれるならどれだけ楽だろう、なんて言葉、どこのドラマかマンガの中の台詞かとずっと思っていたけど。
 今はそれが痛い。



 気がつけば花火は終わり、辺りはまた、波の音だけが響く静かな夜の海に戻っていた。
 付近のカップルも、皆一足先に帰ってしまったようだった。
「遼平さん……」
「何?」
「最後に、お願い、聞いてもらってもいいですか?」
 なるみは俺の背中から離れると、涙を両手でごしごし拭いながら言った。
「……いいよ。好きなだけ言ってごらん」

 私のこと、ぎゅってしてください。
 ……これでいい?
 ……なるみ、愛してるって言ってください。
 ……愛してるよ、なるみちゃん。
 えへへ。
 他には?
 ……え、えーっと、えっちな事とか……
 ……。
 ……じょ、冗談ですぅ……。

「じゃ、じゃぁ……キス、してもらえますか」
 なるみは俺の腕の中で顔を上げ、こちらを見上げた。
「……あぁ、いいよ」
 なるみは少し背伸びをして、そっと目を閉じた。
 俺はそっと、彼女のおでこに唇をつける。
 えっ、そ、そんなぁ、というつぶやき。
「中学生にはまだ早い」
 ……その言葉に、みるみるうちになるみの頬が河豚のようにふくれあがる。
「ひっ、ひどーいっ! なるみ、高校生ですよっ」

 ……。
 ……高校生だったのかよ、お前。

「じゃぁ、こっちでガマンだ」
 内心の動揺を隠しつつ、今度はふくれたほっぺたにキスをする。そんなー、となるみはまだ不機嫌そうだ。
「だって、口移しの時ちゃんと唇にキスしてくれたじゃないですかぁ」
「あ……あれはノーカウント! ファーストキスがあんなのじゃ色気ないだろ」
「……十分ロマンチックだったのに。いじわる」
 抱擁を解いた俺を、下目使いで恨めしげに見つめるなるみ。
「なるみちゃんが良くても俺は嫌なの!」
 ぽかんとするなるみ。失言に気がついて汗をかく俺。
「……ふーん、遼平さんって……」
「もう帰るぞ」
 俺は照れ隠しに背中を向けて歩き出す。
 振り返る直前ちらりと見たなるみの顔は、なんとか笑顔を持ち直していた。

 満員の電車に揺られて、輝日南に戻る。
 電車のなかでなるみの顔が俺の胸に密着していたのは……きっと、人が多すぎたせいだろう。
 Tシャツの胸が濡れていたのも、人混みで暑すぎて、汗をかいたからに違いない。

「それじゃ……私、ちょっと友達の所に寄ってから帰りますね」
 そう言って、なるみは駅前で俺と別れた。
「あぁ……気をつけて。元気でね」
「遼平さんも。……また、お店、遊びに行きますね」
「ああ」
 その時は彼氏を連れておいで。そんな残酷なことを言いかけて、その言葉を飲み込む。
 なるみは駅前の商店街を、振り返り、振り返りながら去っていった。
 最後に振り返り、下駄を響かせながら駆け出す直前。
 街灯の明かりを受けたなるみの目尻がきらりと光って。
 俺はなるみが見えなくなった後もしばらく、駅前の花壇に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺める。
 ……半分に欠けた月が青白く、街を、人を、照らしていた。











 夏が終わり、秋が過ぎ、冬が近づき、これからラーメンが旨くなるという頃。
 俺は相変わらず、店でひたすら手を動かす毎日を送っていた。
 相変わらずおっかない店長にはしょっちゅう叱りとばされているものの、最近では店の味に関わる部分を盗み見ても拳骨は飛んでこなくなった。
 ……正直、自分の実力を疑いたくなることが無い訳じゃない。
 本当にこの道でやっていけるのか、時々不安になることもある。
 でも、一歩厨房に立てばそんな迷いは許されない。
 下っ端は下っ端なりに、全力で客と向かい合う日々が今日も続く。
 
 そんなある日の夕方。
 学生服姿のカップルが、店に訪れた。
 小さなショートボブの女の子に、あまりぱっとしない男の組み合わせ。

 二人はカウンター席に腰をかけ、お冷やを出した俺に注文を告げた。
「支那ソバふたつ、ください」




初出
2006年7月29日●*kimikiss*Narumi_title"里仲なるみ編「麺とスープの相性」”






あとがき/にゃずい


多分扱いが最も難しいなるみ編である。
この話だけキミキスの本編である9月1日以前の話だからだ。

そんななるみ編、なんと彼女はある人物二人のドラマをつなげるためのキーになるキャラにすぎない。
そう、これは遼平と軍平という二人の職人のお話なのだ。
だからこそ、なるみ編はキミキスという青春の一部分を切り取ったゲーム以外の部分を見せてくれる。
キミキスというジャンルを拡張するための、男の物語なのだ。

そんな、男の物語だからこそ、遼平と軍平がこの上なく男前だ。
軍平はゲーム本編では、存在感はあっても出番は少ないというとても惜しいキャラである。
そんな彼の「こうであってほしい」という、優しい祖父のイメージを見事に再現してくれた。

麺とスープの相性は、正確には恋愛話ではない。
だからこそ成り立つ前日譚。こんなファンSSがたまにはあってもいいんじゃないかな?



2010/3/25



→NEXT 「あまやどり」祇条深月編
小説 -
2010.03.25 Thursday :: comments (4) :: -

Comments

 軍平さーん!!
 なるみの両親が本編でも出てこないことから、どんな風になるみを見ていたのかな、と思うと・・・。

 遼平もいい男です。
 いつか遼平もなるみも成長して、職人として話すのも見てみたい感じです。

 ショートボブの女の子とあまりぱっとしない男(笑)は、やっぱりあのカップルなんでしょうねえ。 
wible :: 2010/03/25 10:45 PM
軍平、そして遼平。

二人の職人は紛れも無く漢だ。

この話の主役は軍平なのだろう。
遼平、そしてなるみが起点となり描かれた軍平の物語。

とても新鮮だ。

軍平と清治、この二人の職人は若かりし頃に出会い、そして互いに認め合い、絆を生んだ。

次は遼平となるみ(いや遼平となるみ・その彼氏か)、彼らの物語が紡がれてゆくのだろう。



ラーメン屋の店長もカッコよかったなぁ!
こういうカッコイイ漢たちとの出会いがさらに漢をカッコよくしていくんだ!
おしんこ :: 2010/03/26 11:17 AM
初見かな、と思いつつ読んでいましたがうどンが倒れる所で思い出しました。

年季の入った職人とこれから成長していくであろう職人の掛け合いは簡潔ながらも深く、そして渋くて。

そしてうどンは一度の失恋を乗り越えて職人としても、さえない男wの彼女としても成長していくのでしょう。

読み終わった後無性にカウンターで麺類が食べたくなる話でしたw
駅前のまずいラーメン屋は勘弁な!
はるなま :: 2010/03/30 07:50 PM
■wibleさん
そうなんですよね。なるみの両親ってどうしてるの?ってのがキミキス最大の謎というw
というわけで、軍平がなるみを愛する気持ちって多分ウチらの想像よりも
ずっと深いものなんでしょねー。そんな意味で、遼平は軍平にとってはもってこいの人だったんですが。

まぁ、相原だってなんとかしてくれるはず!さ!…多分。

■おしんこさん
ちょっと変わったお話だけど、こういうSSがあってもいいですよね〜。
自分もかなり好きですよ、男共の生き様を描くのって。

なるみはキーキャラであるにすぎないので、本編でのなるみにあまり影響がないのも
ポイントになってると思います。まぁ、本当に軍平の為のお話ですよねw

■はるなまさん
おお、ラーメン!ああ、常に食べたいです!

正直、なるみって惚れっぽいと思うんですよ。だから、こんな過去があっても
ちゃんと乗り越えていける子というか、うらやましいほどのポジティブさを持ってるんですよね。

くりなま編といい失恋話が続いたのですが、次の祇条深月編もどことなく憂鬱なお話。
前半に青春ストライクを集めすぎたしっぺ返しがここにw
にゃずい@管理人 :: 2010/04/10 10:04 PM

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