小説:●*kimikiss*Megumi 「とどかない背中」
「最近、お兄ちゃん、変なんです」
そう切り出してきたのは、一年A組の問題児コンビの片割れ、相原菜々だった。
風紀委員会室とは名ばかりの、空き教室をロッカーで仕切った半分物置のようなスペース。私はパイプ椅子に座って、相原菜々ともう一人の片割れ、里仲なるみと向かい合っていた。
放課後、二人がこそこそと私の教室にやってきたのがつい先程。時折、というかしょっちゅう兄の所に顔を出す相原菜々はうちのクラスでもそこそこの有名人で、今日もまた隣で聞いていてイライラするブラコンぶりを発揮しに来たのかと思えば、意外なことに目的は私だった。人前で話せない話ということでこの部屋に連れてきたが、様子を見た人間は二人がまたお説教を受けていると思うに違いない。
風紀委員とは因果な商売で、学校の風紀が乱れるのを生徒自ら未然に防ぐ大事な役割であるにもかかわらず、その実は大半の生徒にとっては厄介者扱い、仕事熱心なほど疎まれるという損な役回りだ。純粋な義務感から生徒を注意して回っても、先生への覚えを良くしようと取られることも多い。大学への指定校推薦枠の評価に影響するのは事実だが、仕事で受けるストレスはその程度では全く割に合わない。第一、わたしはそんな裏技みたいな方法を使うつもりはないし。
「家に帰るのが毎日遅いし、晩ご飯も『今日は軽めでいい』ってあんまり食べない日もあるし。それになんだかいつものお兄ちゃんじゃないんです」
「あのねぇ」私はできるだけ気持ちを落ち着かせるよう心がけて答えた。
「晩ご飯のことを前もって言っているってことは、ご両親も帰るのが遅くなる事情はご存じのはずでしょ。いつものお兄ちゃんじゃないって言っても私と相原はただのクラスメイトで普段の彼なんて知らないし。そんなことでいちいち風紀委員に相談されても困るんだけど」
でも、でも、と相原菜々はしつこく食い下がる。
「ほら、なるちゃんも何か言ってよ」
「えぇ、私? ……うーんと、相原先輩、最近あんまり話してくれなくなったっていうか、放課後家庭部のお手伝いお願いしても、『ごめん、今日用事があるから』って言ってすぐ帰っちゃうことが多いし。それにそれに、この前家庭科準備室の窓から見たんですけど、先輩、花壇の花に水をあげてたんですよ!」
あの相原先輩が! と熱心に話しかけてくる里仲なるみ。
「……で? 私に『もっと家庭部の活動に関わってあげなさい』とか、『花壇に水をまくなんてあなたらしくないから止めなさい』って言って欲しいわけ?」
駄目だ。この二人と話しているとイライラが募るばかりだ。眉間に寄ったシワをもみほぐしながら、何とか平常心で話すよう心がける。
「そんなに心配なら、生活指導の先生にでも相談してみれば? 相原の素行が乱れてるとか、不良と仲良くし始めたとかいうならまだしも、風紀委員にはそこまで介入する義務も権限もないわ」
なんだか手抜き警官の言い訳みたいだが、こっちは学生のボランティアだ。普段悪者扱いされているのに、何かあったときだけ頼りにされるのでは本当に割に合わない。
「先生には言いましたっ! でも、なんだかはぐらかされるばかりで……。お兄ちゃんのクラスの人で知り合いなの、柊先輩か星乃さんくらいしかいないけど、柊先輩はなにも教えてくれないし、星乃さんは転校しちゃったし……」
相原菜々はついに涙まで浮かべてしまった。これではまるっきりこちらが悪者だ。
ただ、彼女が私のことを風紀委員としてではなく、相原のクラスメイトとして頼ってきたという事はわかった。私もまた、仕事のことばかり考えて彼女の真意を取り違えていたという訳か。
「……わかったわよ。相原のクラスメイトとしてなら、分かる範囲で調べてみるわ。それでいいんでしょ?」
私は根負けして、できる範囲での協力を約束した。
やっかいごとを進んで背負う自分の性格が恨めしい。
とはいうものの、探偵の真似事をするにあたって、私ほど不適任な人間もいない。
先日転校していった星乃結美が、クラスの仲で『静かすぎ埋もれている』存在であったなら、私は逆に『うるさすぎて浮いている』存在だ。雑談程度ならできるけれどつきあいの深い友達は少ないし、何か調べようとするとすぐに風紀委員絡みの疑いをかけられ、皆とたんに口が重くなる。
実はそんな中でいちばんつきあいがあったのが、他ならぬ相原だったのだが。その彼も最近は何か忙しそうでたまに話しても素っ気ない返事しか帰ってこないし、何より彼のことを調べるのにまず当の本人に当たるのは下の下策だ。かといって他に詳しそうな人間に思い当たりもないし。捜査は出だしからつまずいていた。
放課後の日課である校舎内の見回りをしながら、頭の中では先程のことを考える。
……正直に言うなら。
相原の変化には私も薄々気がついていた。
優柔不断で軽薄、女の子の尻を追い回しているような彼は、目にするにつけしゃくに障る存在だった。だが、他の生徒が注意されると半ば(時にはこれ見よがしに)無視するように私を避けていくのに対し、彼だけはお説教をそれなりに聞いたり、冗談を言って言い逃れを試みたり、何かしらの反応を示してくれていた。
それがある日を境に、皆が嫌がることを進んで引き受けたり、真面目に授業を受けるようになったり(かと思うと突然居眠りを始めることもあったが)、まるで優等生のように振る舞うようになった。
むしろ気になったのはそんな表面的なことよりも、『考え方に無駄がなくなった』ことだった。
武道家の端くれである私に言わせれば、今の彼は一本、筋の通った物の見方をするようになった。重要なこととそうでないものの区別が自然にできている感じがして、そういう意味では私の小言は『重要ではない』ものとして分類されているのだろう。
私はそれを好ましい変化と受け止め、世話の焼ける人間が一人減り、安堵と、理由の分からない寂しさを感じていたのだが。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いているうちに、私は理科室の前まで来ていた。
このあたりは特別教室が集まっているあたりで、放課後ともなると部活動に来る生徒がたまにいる程度で、人通りは少ない。自然、よからぬ事を考える者達が集まりやすいので、風紀委員としても重点的に見回るべき場所だ。
とりあえず私はその「よからぬ事を考えている者」の筆頭に会いに行くことにして、理科準備室に入った。案の定、彼女は実験器具の散らばった古い実験机の上で、日本語以外の言語で書かれた論文を広げて物憂げにそれを眺めている。
二見瑛理子。学校内随一の天才にして、無二の問題児。
「あら、風紀委員。今日も見回りご苦労様」
問題児にばかり顔を覚えられるというのも、風紀委員の悩みの一つだ。
「別にあなたに褒めてもらうために見回ってる訳じゃないんだけどね。これは何?」
目の前のビーカーに入った茶色い液体を指さす。
「コーヒーよ。あなたの分も淹れましょうか?」
「結構。『学校内の備品をみだりに私用に用いない』『学校内の定められた場所以外での飲食は禁止』。これは没収ね」
「仕方ないわね」
二見瑛理子は肩をすくめ、再びペーパーに目を落とす。どうせ私がいなくなれば再び淹れ直すのだろうが、だからといってそのままにしておく訳にもいかない。私はまだ熱いビーカーを指先で持ち、中身を流しに捨てた。やけに香ばしい香りが部屋に満ちる。
「こんな暗いところで小さな文字読んでたら、目が悪くなるわよ」
「大丈夫。慣れてるから」
こんなやりとりをして部屋を出るのがいつもの日課。だが今日はそこで思いとどまる。
「二見さんって、うちのクラスの相原と知り合いだったわよね?」
「……それがどうかした?」
ペーパーの上から目だけを上げて、何かを推し量るような視線を私に向ける。
「たいしたことじゃないの。ただ最近、彼変わったなと思って」
「ふぅん……。残念だけど、色恋沙汰はわたしの管轄外よ」
「そっ……! そんな事じゃないわよ!」
いきなり出てきた色っぽい単語に過剰に反応してしまう。それが二見瑛理子の計算だと気付いた時にはもう遅い。
「彼に詳しい人間なら、私以外にもいるんじゃない? あなたの天敵がもう一人」
今の反応で問題が風紀委員絡みのことではないとわかったのか、二見瑛理子はそれだけ言って、もう言うことはないとばかりに再度ペーパーに目を落とした。
相原に詳しい人間。私の天敵。その言葉で思い浮かぶ人間は一人。
確かに彼女なら、相原のことを聞くには適任だろう。……素直に話してくれればだが。
「ありがとう。参考になったわ」
「どういたしまして」
素っ気なく返されるが、気にすることなく私は実験準備室を出る。
目指すは図書室。彼女はそこにいるはずだ。
「で、見ての通り私は今、受験勉強の真っ最中なんだけど」
案の定、三年の水澤摩央先輩はあからさまに非協力的な態度で私に挑みかかってきた。
放課後の図書室。自習スペースの大半は三年生で埋まり、皆参考書やノートを広げて受験勉強に集中している。息の詰まるような沈黙が辺りにたれ込めていて、小声でしゃべるのにも勇気がいる。
「わざわざ風紀委員の相手をするほど、ヒマじゃないの。また今度にしてちょうだい」
そう言って水澤先輩は再び英語の問題集に目を落とした。似合わない厚手の丸眼鏡をかけて、最初見たときとっさに彼女だとはわからなかった。この姿を見たら先輩に憧れる男子生徒らはさぞかし残念に思うことだろう。いやそれとも、一部の熱狂的なファンが生まれるだろうか。
「言いたいことは山ほどありますが、今日は先輩のことじゃありません」
勉強の邪魔をするのは本意ではなかったが、隣に椅子を持ってきて無理矢理座る。
「相原、来てませんか?」
「光一? 今日は来てないわよ」
意外そうに言った後で、先輩はしまったという表情をした。
意外と簡単に糸が掴めたみたいだ。
「今日はって事は、よく来るんですか?」
「知らないわよ、そんなこと」
思いがけず声が響いて、周りの生徒たちの視線が私達に集まる。中にはあからさまに眉をひそめている三年生もいて、水澤先輩は小さくなってぺこぺこと頭を下げた。
「……週に二、三日よ。一緒に勉強して、分からないところ教えあいっこしてるだけで、やましい事なんて何にもないんだから」
「勉強……? 先輩が相原を誘ったんですか?」
「まさか。いくら私が勉強嫌いでも、いつまでも光一に甘えるわけにはいかないわよ。光一も勉強することにしたからって、一緒にやっているだけ」
さも迷惑そうに先輩は言った。
先輩の言うとおりなら、相原の帰宅が遅いのは図書館で勉強をしているからということになる。ある程度納得できるが、試験前でもないのに居残り勉強をしているというのは今までの相原からは想像できないことだ。
「相原はなんでまた、急に勉強なんかしはじめたんですか?」
「……知らないわよ」
明らかに何か知っている様子だったが、先輩はぶっきらぼうにそれだけ答えた。だがここですんなり引き下がるわけにもいかない。
「じゃあ、先輩と勉強しない日、相原がどこかに行っているとか、先輩何か聞いていませんか?」
水澤先輩はそこで初めて私の方を向き、眼鏡の奥から私に冷たい視線を送ってきた。
「あんたが光一の何を調べてるのかは知らないけど、私はそこまで光一のプライベートを知ってる訳じゃないし、たとえ知っていてもそれをあなたに教える義理はないわ」
そして再び参考書に向かい直す。言外に、もう話は終わりだと宣言されたようだ。
「……お忙しいところおじゃましました。失礼します」
私は小さく礼を言って先輩の元を離れた。
図書室を追い出された私は、ほかに手がかりも思い浮かばず教室に戻った。
窓の外は重く雲がたれ込めている。灯りはすでに消され、薄い灰色の闇で満たされた無人の教室に一人座り、ぼんやりと頬杖をつく。
普段から嫌われ役をやっていると、さっきの先輩のような態度に会うことは結構多い。それでも、敵意や嫌悪感を剥き出しにされることに慣れることはない。たとえ目的や使命感、大義名分がこちらにあるとしてもだ。
「らしくないね。一人でため息なんて」
突然かけられた言葉に我に返る。見ると、教室の入り口には同じクラスの柊明良が立っていた。
「……私、ため息なんてついていた?」
「気付いてなかったのかい? それは重傷だな」
彼は笑って、自分の席から鞄を持ち出した。ちょうど帰るところだったらしい。
成績優秀、運動神経抜群、加えて女の子が好きそうな甘いマスク。学年はおろか先輩や後輩にまで幅広くファンの多い同級生。しかし、その気障ったらしい言葉回しと、相原に輪をかけて軽薄そうな雰囲気のせいで、私はなんとなく彼のことが好きになれなかった。
相原。そうだ。
「柊君、たしか相原とよく一緒にいるわよね?」
柊は私から声をかけられたことが余程意外だったのか、しばらく黙ったままだった。
「……うん。彼とはよく話すけど?」
「最近、相原の様子が前と変わった気がしない?」
「あぁ、変わったね。文化祭が終わった頃からかな……」
前にも増して付き合いが悪くなって困ってるよ。柊はそう言って苦笑した。
「何か、思い当たることとかない? ……たとえば、校外の悪い連中とつきあい始めたとか」
「それは無いんじゃないかな。あの性格で、グレるとか非行に走るとか。そういう奴じゃないよ」
彼は私のたとえを一笑する。だがそれは私の質問の答えではない。
柊もまた、何かを知っていて答えをはぐらかしているような気がした。
だが、続けて質問をしようとする私を遮り、
「……多分、目標ができたんじゃないかな。目先の目標じゃなくて。もっと大きな目標が」
「……」
それは、彼なりのヒントなのだろうか。
それじゃお先に。そう言って、柊は教室から出て行った。
そしてまた一人、私は教室に取り残される。
相原の『大きな目標』、そしてそのための『無駄のない考え方』。
水澤先輩や柊は、おそらくその『目標』を知っている。
それを私に簡単に話してくれないということは、それがおそらく極めてプライベートな話題であるか、あるいは風紀委員に知られてはまずい事があるからだろう。
……調べていることはまだ何も分かっていない。
だがその事よりも、彼の事情を自分が知らされていないという疎外感のほうが、何故か私の心を重く沈ませていた。
その気分が尾を引いたのだろう。夜の稽古は散々だった。
父は私と組み合っただけで、私の浮ついた気分を察し、一方的に散々投げ飛ばした後で早々に稽古を切り上げた。
事情を聞くわけでもなく、叱りとばす訳でもなく。後は一人で考えろということなのだろう。
あの人らしい気の遣い方だった。
私は一人道場の真ん中で、大の字になって天井を見上げている。
そんな状態で私はなお、相原の事を考えていた。
いや、正確には「相原のことを考えて揺れる自分の心」と向かい合おうとしていた。
自分が相原のことを意識しているのは間違いない。
注意を無視されたり、避けられたりすることの多い私にとって、相原は数少ない「注意しがいのある相手」だった。表面上の指示や注意だけでなく、それをきっかけとして、どうでもいい内容ではあるが本当の気持ちから出る言葉を交わせる相手だった。
私はそんな彼のことを、頼りない、軽薄と言って目の敵にしていた。だがそんな相原の存在に、私は気がつかないうちにずいぶん依存していたのかもしれない。
しかし、何かをきっかけに相原は変わり、私は彼に関わるきっかけを失った。
彼がいなくなったことで、私は自分の気持ちを話せる相手を失い、そして孤独に怯えるようになった。
……なんだ。そういう事か。
ただ以前と同じ状態に戻っただけじゃないか。
誰に理解されなくても、自分の信じるもののために努力する。
ずっと前からそうやって頑張ってきたじゃないか。
にゃぁ。
耳元に触れる温かい存在で、思考から引き戻される。
「……ロジ。道場に来ちゃ駄目って、あれほど言ったでしょう」
私の言葉がわかっているのかいないのか、子猫のロジは私の顔にその小さな体をすり寄せてくる。
「もう、仕方のない子ね」
仕方なくロジの体を抱き上げ、柔道着の胸に乗せる。ロジは気持ちよさそうに寝そべり、喉を鳴らして首筋に顔をすり寄せた。
私は小さく温かなその体を、優しく撫でる。
「お前もどんどん大きくなるわよね……。うちに来て一月ちょっとしか経ってないのに」
『決めた! この子の名前はロジよ』
『……もうちょっといい名前があるんじゃない?』
『いいのよ! 路地裏で拾ったからロジ。いい名前じゃない。ねー、ロジ』
……そんな、他愛のない会話が思い出されて。
私はロジの体を抱きしめた。ロジは嫌がり、体をよじって逃げようとするが、私は離さない。
駄目だ。
もう戻れない。
誰とも分かり合えず、一人ぼっちで頑張るなんて、怖くて想像もできない。
あぁ。いつの間に私は、こんなに弱くなってしまったんだろう。
……ロジはようやく私の腕から逃れ、鈴を鳴らして道場の外に出て行った。
後に残ったのは手につけられたひっかき傷と、わずかな温もりだけ。
私はまた一人、涙でにじんだ天井を見上げる。
翌日私がとった行動は、なんとも直接的なものだった。
行き先が分からなければ追いかければいい。
学校が終わり足早に下校する相原を、私はこっそり尾行したのだった。
相原は別段背後を気遣うこともなく、駅前を通り、商店街を抜け、やがて一件の店の裏口に入った。
あまりにあっけなく彼の行き先を突き止めたことに拍子抜けしつつ、表に回って店を確認する。
イタリアンレストラン・ポルタロッソ。
そこから考えられる結論は一つしかなかった。
「……アルバイト?」
とりあえず、不良のたまり場だったり、未亡人のマンションだったり、そういうよからぬ場所ではなかったことに安堵する。
だが、どうして彼が学校に内緒でアルバイトなんて始めたのか。動機がわからないことには疑問は明らかにならない。
証拠も押さえたし、明日改めて相原を問いつめればいいことではあったが、私は何となくその場を立ち去りがたく、しばらく物陰で裏口を見張ることにした。
業者のトラックや、ゴミ出しの店員らが出入りするのを眺めながら、私はぼんやりと考える。
私は一体何をしようとしているのか。
……いや、相原に何をしたいのか。どうしてほしいのか。
相原と元のように話をするきっかけが欲しいのか。
それとも、前より進んだ関係になりたいのか。
(前より進んだ……それって)
具体的なイメージが頭の中によぎり、慌ててそれを打ち消す。
愛だの恋だの、そんなものは私には縁遠いもののはずだ。
だがその一方で、今わたしがやっていることは典型的な恋する乙女のそれであり。
「……何やってるのかしら、私」
思わずため息が漏れた。
鈍色の空は日が暮れるに従い、ますます暗く、重く沈んでいった。
考えてみれば、アルバイトで働くというのだから、一時間や二時間で出てくるはずもない。
その事にようやく気がついたのは、残念ながら雨粒がアスファルトを濡らし始めてからだった。
私は慌てて物陰を飛び出し、シャッターの閉まった商店の軒先に駆け込んだ。
雨はあっという間に勢いを増し、道の向こうも煙って見えないほどの濃いカーテンになる。
生憎、今日は傘も持ち歩いておらず、これで否応なしにここで店を見張り続けることになった。
意味のない時間がただ過ぎていく。
私は店先にしゃがみ込み、膝を抱えて、足元にはねる雨の飛沫をじっと見下ろした。
よくわからない気持ちで彼のことを調べ始めて。
彼が秘密にしていることを突き止めて。
それで一体、なにをしたいのだろう。何が変わるというのだろう。
おまけに、雨が降ってきて帰るに帰れない。
これではまるで、子供の探偵ごっこと何ら変わりない。
……なんだか自分が情けなくて、涙が出てきそうだった。
私は一体こんなところで何をやっているのだろう。
「何やってるんだよ。こんなところで」
上を向くと、そこに相原がいた。
右手に傘、左手に丸椅子とスープ皿を持ち、相原は私を見下ろしていた。
とっさのことに、何も言葉が出てこない。
相原はそんな私の反応を待つこともなく、椅子を私の隣に置き、畳んだ傘をシャッターに立てかけると、どっかりと椅子に腰掛けた。膝の上のスープ皿をスプーンですくい、私に差し出してくる。
「食うか?」
「……何?」
「リゾット。今日のまかない」
それだけ言って、ほんのりと赤くとろけた米の載ったスプーンをずい、と差し出す。どうやら直接食べろということらしい。
「……買収する気?」
「食わないなら俺が全部食べる」
「……食べるわよ」
私は思いきってスプーンに口をつけた。
「熱いぞ。気をつけろ」
私はあつあつのリゾットを口の中に入れて言葉にならない悲鳴を上げた。
「お……遅いわよ!」
怒る私を見て少し笑い、相原は二口目をすくってよこした。今度は慎重に吹き冷まし、口に入れる。
魚介の出汁に、トマトの酸味が利いた、美味しいリゾットだった。
「……美味しい」
そうかと言って、相原は黙々とスプーンを動かし始めた。
間接キス。そんな言葉がふと頭をよぎり、軽く頬が熱くなる。
だが相原はそんなことを気にする様子もなく、悔しいくらい普通にスプーンを口に運んでいた。
休み無くスプーンを動かす相原に気を遣って、しばらく何も話さず、彼の横顔を眺める。
ぼろぼろのジーンズにサイズの合わない調理服を着た相原は、普段と服装が違うだけのはずなのに、ずいぶん大人びて見えた。
「私が来てるって、いつ気がついたの?」
「店の人が、怪しい女子高生が裏口を見張ってる、お前のストーカーみたいだから行って話をつけてこいって」
……ストーカーとは心外だったが、確かに今わたしがやっていることは紛れもないストーキング行為だった。
「何でアルバイトなんてしてるの?」
皿の中身も少なくなった頃を見計らって、私は問いかける。
「……校則違反で処分するのか?」
彼は皿を見たまま、そう答える。
……こんな反応は今まで何度も受けている。けど。何故だろう。
今日ほど、自分が風紀委員なんてやっていることをつらいと思ったことはなかった。
歯をくいしばって痛みをやりすごす。
彼はそんな私を一目見ると、何も言わず立ち上がった。
……待って。お願い。
そんな言葉も言えず、ただ視線で彼を追うことしかできない。
だが彼は、すぐ側の自動販売機に向かっただけだった。ポケットから小銭を出し、ジュースの缶を二本、落とす。
「……ほら。どっちがいい」
相原は私の前に、紅茶と清涼飲料水の缶を差し出した。
紅茶の缶を受け取り、あわてて小銭入れから硬貨を取り出す。
「いいって」「いいから」
私は無理矢理彼に硬貨を握らせた。
プルタブを開ける音を二つ鳴らし、私達は口元に缶を運びながら、雨に濡れる路地を眺める。
「ごめん。理由もなく処分とか、栗生さんはそういうことしないよな」
……私は余程、傷ついた顔をしていたらしい。
「……菜々さんが、心配してたわ。毎日帰りが遅いって」私も、とは言えなかった。
あいつ、口が軽いから黙ってたんだけどな……。逆効果だったか。
相原はつぶやき、清涼飲料水の缶をあおった。
「旅費」
「旅費って……。そのためのバイト? どこに行くつもり?」
相原はしばらく黙っていた。言うか言うまいか、迷っているような雰囲気。
やがて彼は頭を掻いて、ぶっきらぼうに言った。
「星乃さんとこ」
……
「好き……なんだ」
「ああ」
「……両想い?」
「うん」
ようやく、謎が解ける。
それが、相原の『大きな目標』なのか。
欠けていた大きなピースがはまり、全体像が見える。
……代わりにぽっかりと、なにか大きな隙間を空けて。
「できれば、黙ってて欲しいんだ。無理は承知だけど、頼む」
「……私は別に、密告屋じゃないんだから。」
答える私の声は虚ろだった。思考が体に追いついていない感じ。
ありがとう、という相原の声が聞こえた気がする。
彼は時計を見て、席を立った。ゴミ箱に空の缶が落ちる音がやけに大きく響く。
「そろそろ戻る。傘、使いな」
「そんな……。相原はどうするのよ」
「帰るの十時過ぎるから、そのころには止んでるだろ……それに」
スカートじゃ、走りにくいだろ?
懐かしい台詞を口にして微かに笑うと、相原は椅子と皿を手に、雨の中を店の裏口へ駆けていった。
……いろんな事が頭の中を回って、どうやって家に帰り着いたのか覚えていない。
私は部屋にたどり着くと、ベッドの上に仰向けに寝転がり、
相原の傘を抱きしめたまま、天井を見上げていた。
そうか、私は、相原のことが……
夜になっても雨は降り続いていた。
人通りも絶え、自動販売機の灯りと、時折明滅する街灯だけが濡れた路面を照らしている。
店の裏口から現れ、鞄を頭の上に掲げて雨の中に飛び出そうとする相原を、私は呼び止めた。
「……栗生さん」
彼は驚いた表情で、私のいるシャッターの前まで走ってきた。
「帰ったんじゃなかったの」
「一度帰ったわよ。でも……雨、止まなかったから」
私は私服に着替え、傘を二本持って、相原を待っていたのだった。
「……深夜に出歩くのは校則違反じゃなかったっけ?」
「あなたのアルバイトを見逃してあげるのよ。少しは多めに見なさい」
私達は傘を二つ並べて歩き出す。
仕事、なにやってるの?
皿洗い。たまに簡単な下ごしらえもやらしてもらえるけど。
そう……立ちっぱなしで疲れたんじゃない?
今日はそうでもない。雨でお客も少なかったし。
……そう言えば、なんで急に勉強なんて始めたの?
そこまで調べたのかよ……。同い年の子と結婚するには、余計に収入がいるんだと。そのための準備。
……ふ、ふーん。もうそこまで考えてるんだ
笑いたきゃ笑えよ。
笑わないわよ……。でも、それって女性は家庭に入れって事?
そうは言ってない。働きたいのならそれでいいし、そうでないならその時は、って事。
彼は疲れているはずなのに、私の質問には丁寧に答えてくれた。
こうして二人きりで話をするのは、ひょっとすると初めてだったかもしれない。
どうでもいいことを、ただ素直に、誰かと話すことができる時間。
こんな時間がとても心地いい。こうしてずっと彼と話をしていたい。今の私は素直にそう思うことができた。
でも、そんな時間もあっという間に過ぎ、程なく私達は駅前に着いてしまう。
「それじゃ栗生さん、おやすみ。また明日」
「まって」
背中を向けようとした彼を、私は覚悟を決めて呼び止める。
「……?」
「傘の、お礼」
「……いいよ。こうして持ってきてくれたじゃないか」
「いいから」
無理矢理こちらを向かせて、側に立たせる。
そして私は彼の首に手を回し、つま先立ちになると、
相原の唇を奪った。
「……それじゃ、また明日っ」
私はそれだけ言うと、相原の顔も見ずに振り返ると、雨の中を駆けだした。
雨の降る中、夜道を虹色に照らす街灯が、後ろへと流れていく。
傘は邪魔になったので途中で畳んだ。顔に、髪に、雨の粒が降り注ぎ、目尻に浮かぶ水滴を隠す。
この恋は誰も幸せにしないかもしれない。
このまま彼と秘密を共有していれば、彼は以前のように私と話をしてくれるだろう。
でも、きっと私は、その関係に満足できなくなる。
だから私は走り出した。もう立ち止まることはできない。
誰かを敵に回しても、自分の気持ちを信じて努力してやる。
私は、ずっと前から、そうやって頑張ってきたんだ。
誰にも分かってもらえないかもしれない。たった一人で頑張ることになるかもしれない。
でも私は弱くなんかない。
たとえどんな結末が待っていても、私は絶対に、最後まで走り抜けてやる。
冷たい雨の降る夜空に、私は言葉にならない叫びを上げた。
初出
2006年7月20日●*kimikiss*Megumi_title"栗生恵編「とどかない背中」”
あとがき/にゃずい
私が一番好きな作品である「とどかない背中」。
キミキスという話で、本来あり得ない形"BADEND"を扱ったこの作品は
星乃結美編の裏話として存在している。そして、結美編を先に読まれた方には理解できるだろうが
この中に登場する相原光一は、絶対に恵に対して友情以上のものを生まないだろう。
なんとも切ない話である。前作の亜紀が潔いかませ犬ならば、今作の恵は最高に往生際の悪いかませ犬だ。
前回「大切な人が幸せになることを祈るという幸せ」というカタチに落ち着いたのに対して
例え大勢の人間を敵に回そうが「自分が幸せになるために、何事も勝ち取る」という選択をした今作。
一見すると、亜紀よりも恵の方が強い人間に見える。が、実際は圧倒的に恵の方が弱い人間だ。
彼女は自分が持つ寂しいと思う気持ちに耐えられなかった為に戦う事を選んだのだ。
しかし、恵は知っている。自分が負けるであろうことを。だから、だからこそこの話は切なくとも美しい。
そしてお分かりかと思うが、このように「誰かが幸せになる事で他の誰かが不幸」になる。
これはアマガミのシナリオ構成と同じなのだ。
キミキスの時代に、すでにこのような報われない世界を扱った作品があったのはとても大事な記憶だ。
この恵がいたからこそ、自分はアマガミのソエンやBADになんの抵抗もなかったといえる。
さて、ここで疑問が生まれる。
何故キミキス-purerouge-にはこの感覚が生まれなったのだろう?ということだ。
それは単純な理由である。あの作品は中途半端にエンターテイメントであろうとした事だ。
私は-purerouge-の光一ルート基本設計について、それほど悪いものとは思ってはいない。
自分があの話で納得がいかなかったのは、結美に対する扱い以上に光一に対して罰がなかったことだ。
テーマに「闇」を扱うならば、それこそしっかりとしたBADを描くべきだと思っている。
結美編を先に読むことで、勝ち目のない戦いである事を理解できる「とどかない背中」。
恋愛は光の部分だけでは成り立たない。闇の部分も含めて恋愛なのだ。
BADEND上等である。そこからしか学べないものもある。悲しみの先に絶望しかないなんて事はないのだ。
2010/3/14
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そう切り出してきたのは、一年A組の問題児コンビの片割れ、相原菜々だった。
風紀委員会室とは名ばかりの、空き教室をロッカーで仕切った半分物置のようなスペース。私はパイプ椅子に座って、相原菜々ともう一人の片割れ、里仲なるみと向かい合っていた。
放課後、二人がこそこそと私の教室にやってきたのがつい先程。時折、というかしょっちゅう兄の所に顔を出す相原菜々はうちのクラスでもそこそこの有名人で、今日もまた隣で聞いていてイライラするブラコンぶりを発揮しに来たのかと思えば、意外なことに目的は私だった。人前で話せない話ということでこの部屋に連れてきたが、様子を見た人間は二人がまたお説教を受けていると思うに違いない。
風紀委員とは因果な商売で、学校の風紀が乱れるのを生徒自ら未然に防ぐ大事な役割であるにもかかわらず、その実は大半の生徒にとっては厄介者扱い、仕事熱心なほど疎まれるという損な役回りだ。純粋な義務感から生徒を注意して回っても、先生への覚えを良くしようと取られることも多い。大学への指定校推薦枠の評価に影響するのは事実だが、仕事で受けるストレスはその程度では全く割に合わない。第一、わたしはそんな裏技みたいな方法を使うつもりはないし。
「家に帰るのが毎日遅いし、晩ご飯も『今日は軽めでいい』ってあんまり食べない日もあるし。それになんだかいつものお兄ちゃんじゃないんです」
「あのねぇ」私はできるだけ気持ちを落ち着かせるよう心がけて答えた。
「晩ご飯のことを前もって言っているってことは、ご両親も帰るのが遅くなる事情はご存じのはずでしょ。いつものお兄ちゃんじゃないって言っても私と相原はただのクラスメイトで普段の彼なんて知らないし。そんなことでいちいち風紀委員に相談されても困るんだけど」
でも、でも、と相原菜々はしつこく食い下がる。
「ほら、なるちゃんも何か言ってよ」
「えぇ、私? ……うーんと、相原先輩、最近あんまり話してくれなくなったっていうか、放課後家庭部のお手伝いお願いしても、『ごめん、今日用事があるから』って言ってすぐ帰っちゃうことが多いし。それにそれに、この前家庭科準備室の窓から見たんですけど、先輩、花壇の花に水をあげてたんですよ!」
あの相原先輩が! と熱心に話しかけてくる里仲なるみ。
「……で? 私に『もっと家庭部の活動に関わってあげなさい』とか、『花壇に水をまくなんてあなたらしくないから止めなさい』って言って欲しいわけ?」
駄目だ。この二人と話しているとイライラが募るばかりだ。眉間に寄ったシワをもみほぐしながら、何とか平常心で話すよう心がける。
「そんなに心配なら、生活指導の先生にでも相談してみれば? 相原の素行が乱れてるとか、不良と仲良くし始めたとかいうならまだしも、風紀委員にはそこまで介入する義務も権限もないわ」
なんだか手抜き警官の言い訳みたいだが、こっちは学生のボランティアだ。普段悪者扱いされているのに、何かあったときだけ頼りにされるのでは本当に割に合わない。
「先生には言いましたっ! でも、なんだかはぐらかされるばかりで……。お兄ちゃんのクラスの人で知り合いなの、柊先輩か星乃さんくらいしかいないけど、柊先輩はなにも教えてくれないし、星乃さんは転校しちゃったし……」
相原菜々はついに涙まで浮かべてしまった。これではまるっきりこちらが悪者だ。
ただ、彼女が私のことを風紀委員としてではなく、相原のクラスメイトとして頼ってきたという事はわかった。私もまた、仕事のことばかり考えて彼女の真意を取り違えていたという訳か。
「……わかったわよ。相原のクラスメイトとしてなら、分かる範囲で調べてみるわ。それでいいんでしょ?」
私は根負けして、できる範囲での協力を約束した。
やっかいごとを進んで背負う自分の性格が恨めしい。
とはいうものの、探偵の真似事をするにあたって、私ほど不適任な人間もいない。
先日転校していった星乃結美が、クラスの仲で『静かすぎ埋もれている』存在であったなら、私は逆に『うるさすぎて浮いている』存在だ。雑談程度ならできるけれどつきあいの深い友達は少ないし、何か調べようとするとすぐに風紀委員絡みの疑いをかけられ、皆とたんに口が重くなる。
実はそんな中でいちばんつきあいがあったのが、他ならぬ相原だったのだが。その彼も最近は何か忙しそうでたまに話しても素っ気ない返事しか帰ってこないし、何より彼のことを調べるのにまず当の本人に当たるのは下の下策だ。かといって他に詳しそうな人間に思い当たりもないし。捜査は出だしからつまずいていた。
放課後の日課である校舎内の見回りをしながら、頭の中では先程のことを考える。
……正直に言うなら。
相原の変化には私も薄々気がついていた。
優柔不断で軽薄、女の子の尻を追い回しているような彼は、目にするにつけしゃくに障る存在だった。だが、他の生徒が注意されると半ば(時にはこれ見よがしに)無視するように私を避けていくのに対し、彼だけはお説教をそれなりに聞いたり、冗談を言って言い逃れを試みたり、何かしらの反応を示してくれていた。
それがある日を境に、皆が嫌がることを進んで引き受けたり、真面目に授業を受けるようになったり(かと思うと突然居眠りを始めることもあったが)、まるで優等生のように振る舞うようになった。
むしろ気になったのはそんな表面的なことよりも、『考え方に無駄がなくなった』ことだった。
武道家の端くれである私に言わせれば、今の彼は一本、筋の通った物の見方をするようになった。重要なこととそうでないものの区別が自然にできている感じがして、そういう意味では私の小言は『重要ではない』ものとして分類されているのだろう。
私はそれを好ましい変化と受け止め、世話の焼ける人間が一人減り、安堵と、理由の分からない寂しさを感じていたのだが。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いているうちに、私は理科室の前まで来ていた。
このあたりは特別教室が集まっているあたりで、放課後ともなると部活動に来る生徒がたまにいる程度で、人通りは少ない。自然、よからぬ事を考える者達が集まりやすいので、風紀委員としても重点的に見回るべき場所だ。
とりあえず私はその「よからぬ事を考えている者」の筆頭に会いに行くことにして、理科準備室に入った。案の定、彼女は実験器具の散らばった古い実験机の上で、日本語以外の言語で書かれた論文を広げて物憂げにそれを眺めている。
二見瑛理子。学校内随一の天才にして、無二の問題児。
「あら、風紀委員。今日も見回りご苦労様」
問題児にばかり顔を覚えられるというのも、風紀委員の悩みの一つだ。
「別にあなたに褒めてもらうために見回ってる訳じゃないんだけどね。これは何?」
目の前のビーカーに入った茶色い液体を指さす。
「コーヒーよ。あなたの分も淹れましょうか?」
「結構。『学校内の備品をみだりに私用に用いない』『学校内の定められた場所以外での飲食は禁止』。これは没収ね」
「仕方ないわね」
二見瑛理子は肩をすくめ、再びペーパーに目を落とす。どうせ私がいなくなれば再び淹れ直すのだろうが、だからといってそのままにしておく訳にもいかない。私はまだ熱いビーカーを指先で持ち、中身を流しに捨てた。やけに香ばしい香りが部屋に満ちる。
「こんな暗いところで小さな文字読んでたら、目が悪くなるわよ」
「大丈夫。慣れてるから」
こんなやりとりをして部屋を出るのがいつもの日課。だが今日はそこで思いとどまる。
「二見さんって、うちのクラスの相原と知り合いだったわよね?」
「……それがどうかした?」
ペーパーの上から目だけを上げて、何かを推し量るような視線を私に向ける。
「たいしたことじゃないの。ただ最近、彼変わったなと思って」
「ふぅん……。残念だけど、色恋沙汰はわたしの管轄外よ」
「そっ……! そんな事じゃないわよ!」
いきなり出てきた色っぽい単語に過剰に反応してしまう。それが二見瑛理子の計算だと気付いた時にはもう遅い。
「彼に詳しい人間なら、私以外にもいるんじゃない? あなたの天敵がもう一人」
今の反応で問題が風紀委員絡みのことではないとわかったのか、二見瑛理子はそれだけ言って、もう言うことはないとばかりに再度ペーパーに目を落とした。
相原に詳しい人間。私の天敵。その言葉で思い浮かぶ人間は一人。
確かに彼女なら、相原のことを聞くには適任だろう。……素直に話してくれればだが。
「ありがとう。参考になったわ」
「どういたしまして」
素っ気なく返されるが、気にすることなく私は実験準備室を出る。
目指すは図書室。彼女はそこにいるはずだ。
「で、見ての通り私は今、受験勉強の真っ最中なんだけど」
案の定、三年の水澤摩央先輩はあからさまに非協力的な態度で私に挑みかかってきた。
放課後の図書室。自習スペースの大半は三年生で埋まり、皆参考書やノートを広げて受験勉強に集中している。息の詰まるような沈黙が辺りにたれ込めていて、小声でしゃべるのにも勇気がいる。
「わざわざ風紀委員の相手をするほど、ヒマじゃないの。また今度にしてちょうだい」
そう言って水澤先輩は再び英語の問題集に目を落とした。似合わない厚手の丸眼鏡をかけて、最初見たときとっさに彼女だとはわからなかった。この姿を見たら先輩に憧れる男子生徒らはさぞかし残念に思うことだろう。いやそれとも、一部の熱狂的なファンが生まれるだろうか。
「言いたいことは山ほどありますが、今日は先輩のことじゃありません」
勉強の邪魔をするのは本意ではなかったが、隣に椅子を持ってきて無理矢理座る。
「相原、来てませんか?」
「光一? 今日は来てないわよ」
意外そうに言った後で、先輩はしまったという表情をした。
意外と簡単に糸が掴めたみたいだ。
「今日はって事は、よく来るんですか?」
「知らないわよ、そんなこと」
思いがけず声が響いて、周りの生徒たちの視線が私達に集まる。中にはあからさまに眉をひそめている三年生もいて、水澤先輩は小さくなってぺこぺこと頭を下げた。
「……週に二、三日よ。一緒に勉強して、分からないところ教えあいっこしてるだけで、やましい事なんて何にもないんだから」
「勉強……? 先輩が相原を誘ったんですか?」
「まさか。いくら私が勉強嫌いでも、いつまでも光一に甘えるわけにはいかないわよ。光一も勉強することにしたからって、一緒にやっているだけ」
さも迷惑そうに先輩は言った。
先輩の言うとおりなら、相原の帰宅が遅いのは図書館で勉強をしているからということになる。ある程度納得できるが、試験前でもないのに居残り勉強をしているというのは今までの相原からは想像できないことだ。
「相原はなんでまた、急に勉強なんかしはじめたんですか?」
「……知らないわよ」
明らかに何か知っている様子だったが、先輩はぶっきらぼうにそれだけ答えた。だがここですんなり引き下がるわけにもいかない。
「じゃあ、先輩と勉強しない日、相原がどこかに行っているとか、先輩何か聞いていませんか?」
水澤先輩はそこで初めて私の方を向き、眼鏡の奥から私に冷たい視線を送ってきた。
「あんたが光一の何を調べてるのかは知らないけど、私はそこまで光一のプライベートを知ってる訳じゃないし、たとえ知っていてもそれをあなたに教える義理はないわ」
そして再び参考書に向かい直す。言外に、もう話は終わりだと宣言されたようだ。
「……お忙しいところおじゃましました。失礼します」
私は小さく礼を言って先輩の元を離れた。
図書室を追い出された私は、ほかに手がかりも思い浮かばず教室に戻った。
窓の外は重く雲がたれ込めている。灯りはすでに消され、薄い灰色の闇で満たされた無人の教室に一人座り、ぼんやりと頬杖をつく。
普段から嫌われ役をやっていると、さっきの先輩のような態度に会うことは結構多い。それでも、敵意や嫌悪感を剥き出しにされることに慣れることはない。たとえ目的や使命感、大義名分がこちらにあるとしてもだ。
「らしくないね。一人でため息なんて」
突然かけられた言葉に我に返る。見ると、教室の入り口には同じクラスの柊明良が立っていた。
「……私、ため息なんてついていた?」
「気付いてなかったのかい? それは重傷だな」
彼は笑って、自分の席から鞄を持ち出した。ちょうど帰るところだったらしい。
成績優秀、運動神経抜群、加えて女の子が好きそうな甘いマスク。学年はおろか先輩や後輩にまで幅広くファンの多い同級生。しかし、その気障ったらしい言葉回しと、相原に輪をかけて軽薄そうな雰囲気のせいで、私はなんとなく彼のことが好きになれなかった。
相原。そうだ。
「柊君、たしか相原とよく一緒にいるわよね?」
柊は私から声をかけられたことが余程意外だったのか、しばらく黙ったままだった。
「……うん。彼とはよく話すけど?」
「最近、相原の様子が前と変わった気がしない?」
「あぁ、変わったね。文化祭が終わった頃からかな……」
前にも増して付き合いが悪くなって困ってるよ。柊はそう言って苦笑した。
「何か、思い当たることとかない? ……たとえば、校外の悪い連中とつきあい始めたとか」
「それは無いんじゃないかな。あの性格で、グレるとか非行に走るとか。そういう奴じゃないよ」
彼は私のたとえを一笑する。だがそれは私の質問の答えではない。
柊もまた、何かを知っていて答えをはぐらかしているような気がした。
だが、続けて質問をしようとする私を遮り、
「……多分、目標ができたんじゃないかな。目先の目標じゃなくて。もっと大きな目標が」
「……」
それは、彼なりのヒントなのだろうか。
それじゃお先に。そう言って、柊は教室から出て行った。
そしてまた一人、私は教室に取り残される。
相原の『大きな目標』、そしてそのための『無駄のない考え方』。
水澤先輩や柊は、おそらくその『目標』を知っている。
それを私に簡単に話してくれないということは、それがおそらく極めてプライベートな話題であるか、あるいは風紀委員に知られてはまずい事があるからだろう。
……調べていることはまだ何も分かっていない。
だがその事よりも、彼の事情を自分が知らされていないという疎外感のほうが、何故か私の心を重く沈ませていた。
その気分が尾を引いたのだろう。夜の稽古は散々だった。
父は私と組み合っただけで、私の浮ついた気分を察し、一方的に散々投げ飛ばした後で早々に稽古を切り上げた。
事情を聞くわけでもなく、叱りとばす訳でもなく。後は一人で考えろということなのだろう。
あの人らしい気の遣い方だった。
私は一人道場の真ん中で、大の字になって天井を見上げている。
そんな状態で私はなお、相原の事を考えていた。
いや、正確には「相原のことを考えて揺れる自分の心」と向かい合おうとしていた。
自分が相原のことを意識しているのは間違いない。
注意を無視されたり、避けられたりすることの多い私にとって、相原は数少ない「注意しがいのある相手」だった。表面上の指示や注意だけでなく、それをきっかけとして、どうでもいい内容ではあるが本当の気持ちから出る言葉を交わせる相手だった。
私はそんな彼のことを、頼りない、軽薄と言って目の敵にしていた。だがそんな相原の存在に、私は気がつかないうちにずいぶん依存していたのかもしれない。
しかし、何かをきっかけに相原は変わり、私は彼に関わるきっかけを失った。
彼がいなくなったことで、私は自分の気持ちを話せる相手を失い、そして孤独に怯えるようになった。
……なんだ。そういう事か。
ただ以前と同じ状態に戻っただけじゃないか。
誰に理解されなくても、自分の信じるもののために努力する。
ずっと前からそうやって頑張ってきたじゃないか。
にゃぁ。
耳元に触れる温かい存在で、思考から引き戻される。
「……ロジ。道場に来ちゃ駄目って、あれほど言ったでしょう」
私の言葉がわかっているのかいないのか、子猫のロジは私の顔にその小さな体をすり寄せてくる。
「もう、仕方のない子ね」
仕方なくロジの体を抱き上げ、柔道着の胸に乗せる。ロジは気持ちよさそうに寝そべり、喉を鳴らして首筋に顔をすり寄せた。
私は小さく温かなその体を、優しく撫でる。
「お前もどんどん大きくなるわよね……。うちに来て一月ちょっとしか経ってないのに」
『決めた! この子の名前はロジよ』
『……もうちょっといい名前があるんじゃない?』
『いいのよ! 路地裏で拾ったからロジ。いい名前じゃない。ねー、ロジ』
……そんな、他愛のない会話が思い出されて。
私はロジの体を抱きしめた。ロジは嫌がり、体をよじって逃げようとするが、私は離さない。
駄目だ。
もう戻れない。
誰とも分かり合えず、一人ぼっちで頑張るなんて、怖くて想像もできない。
あぁ。いつの間に私は、こんなに弱くなってしまったんだろう。
……ロジはようやく私の腕から逃れ、鈴を鳴らして道場の外に出て行った。
後に残ったのは手につけられたひっかき傷と、わずかな温もりだけ。
私はまた一人、涙でにじんだ天井を見上げる。
翌日私がとった行動は、なんとも直接的なものだった。
行き先が分からなければ追いかければいい。
学校が終わり足早に下校する相原を、私はこっそり尾行したのだった。
相原は別段背後を気遣うこともなく、駅前を通り、商店街を抜け、やがて一件の店の裏口に入った。
あまりにあっけなく彼の行き先を突き止めたことに拍子抜けしつつ、表に回って店を確認する。
イタリアンレストラン・ポルタロッソ。
そこから考えられる結論は一つしかなかった。
「……アルバイト?」
とりあえず、不良のたまり場だったり、未亡人のマンションだったり、そういうよからぬ場所ではなかったことに安堵する。
だが、どうして彼が学校に内緒でアルバイトなんて始めたのか。動機がわからないことには疑問は明らかにならない。
証拠も押さえたし、明日改めて相原を問いつめればいいことではあったが、私は何となくその場を立ち去りがたく、しばらく物陰で裏口を見張ることにした。
業者のトラックや、ゴミ出しの店員らが出入りするのを眺めながら、私はぼんやりと考える。
私は一体何をしようとしているのか。
……いや、相原に何をしたいのか。どうしてほしいのか。
相原と元のように話をするきっかけが欲しいのか。
それとも、前より進んだ関係になりたいのか。
(前より進んだ……それって)
具体的なイメージが頭の中によぎり、慌ててそれを打ち消す。
愛だの恋だの、そんなものは私には縁遠いもののはずだ。
だがその一方で、今わたしがやっていることは典型的な恋する乙女のそれであり。
「……何やってるのかしら、私」
思わずため息が漏れた。
鈍色の空は日が暮れるに従い、ますます暗く、重く沈んでいった。
考えてみれば、アルバイトで働くというのだから、一時間や二時間で出てくるはずもない。
その事にようやく気がついたのは、残念ながら雨粒がアスファルトを濡らし始めてからだった。
私は慌てて物陰を飛び出し、シャッターの閉まった商店の軒先に駆け込んだ。
雨はあっという間に勢いを増し、道の向こうも煙って見えないほどの濃いカーテンになる。
生憎、今日は傘も持ち歩いておらず、これで否応なしにここで店を見張り続けることになった。
意味のない時間がただ過ぎていく。
私は店先にしゃがみ込み、膝を抱えて、足元にはねる雨の飛沫をじっと見下ろした。
よくわからない気持ちで彼のことを調べ始めて。
彼が秘密にしていることを突き止めて。
それで一体、なにをしたいのだろう。何が変わるというのだろう。
おまけに、雨が降ってきて帰るに帰れない。
これではまるで、子供の探偵ごっこと何ら変わりない。
……なんだか自分が情けなくて、涙が出てきそうだった。
私は一体こんなところで何をやっているのだろう。
「何やってるんだよ。こんなところで」
上を向くと、そこに相原がいた。
右手に傘、左手に丸椅子とスープ皿を持ち、相原は私を見下ろしていた。
とっさのことに、何も言葉が出てこない。
相原はそんな私の反応を待つこともなく、椅子を私の隣に置き、畳んだ傘をシャッターに立てかけると、どっかりと椅子に腰掛けた。膝の上のスープ皿をスプーンですくい、私に差し出してくる。
「食うか?」
「……何?」
「リゾット。今日のまかない」
それだけ言って、ほんのりと赤くとろけた米の載ったスプーンをずい、と差し出す。どうやら直接食べろということらしい。
「……買収する気?」
「食わないなら俺が全部食べる」
「……食べるわよ」
私は思いきってスプーンに口をつけた。
「熱いぞ。気をつけろ」
私はあつあつのリゾットを口の中に入れて言葉にならない悲鳴を上げた。
「お……遅いわよ!」
怒る私を見て少し笑い、相原は二口目をすくってよこした。今度は慎重に吹き冷まし、口に入れる。
魚介の出汁に、トマトの酸味が利いた、美味しいリゾットだった。
「……美味しい」
そうかと言って、相原は黙々とスプーンを動かし始めた。
間接キス。そんな言葉がふと頭をよぎり、軽く頬が熱くなる。
だが相原はそんなことを気にする様子もなく、悔しいくらい普通にスプーンを口に運んでいた。
休み無くスプーンを動かす相原に気を遣って、しばらく何も話さず、彼の横顔を眺める。
ぼろぼろのジーンズにサイズの合わない調理服を着た相原は、普段と服装が違うだけのはずなのに、ずいぶん大人びて見えた。
「私が来てるって、いつ気がついたの?」
「店の人が、怪しい女子高生が裏口を見張ってる、お前のストーカーみたいだから行って話をつけてこいって」
……ストーカーとは心外だったが、確かに今わたしがやっていることは紛れもないストーキング行為だった。
「何でアルバイトなんてしてるの?」
皿の中身も少なくなった頃を見計らって、私は問いかける。
「……校則違反で処分するのか?」
彼は皿を見たまま、そう答える。
……こんな反応は今まで何度も受けている。けど。何故だろう。
今日ほど、自分が風紀委員なんてやっていることをつらいと思ったことはなかった。
歯をくいしばって痛みをやりすごす。
彼はそんな私を一目見ると、何も言わず立ち上がった。
……待って。お願い。
そんな言葉も言えず、ただ視線で彼を追うことしかできない。
だが彼は、すぐ側の自動販売機に向かっただけだった。ポケットから小銭を出し、ジュースの缶を二本、落とす。
「……ほら。どっちがいい」
相原は私の前に、紅茶と清涼飲料水の缶を差し出した。
紅茶の缶を受け取り、あわてて小銭入れから硬貨を取り出す。
「いいって」「いいから」
私は無理矢理彼に硬貨を握らせた。
プルタブを開ける音を二つ鳴らし、私達は口元に缶を運びながら、雨に濡れる路地を眺める。
「ごめん。理由もなく処分とか、栗生さんはそういうことしないよな」
……私は余程、傷ついた顔をしていたらしい。
「……菜々さんが、心配してたわ。毎日帰りが遅いって」私も、とは言えなかった。
あいつ、口が軽いから黙ってたんだけどな……。逆効果だったか。
相原はつぶやき、清涼飲料水の缶をあおった。
「旅費」
「旅費って……。そのためのバイト? どこに行くつもり?」
相原はしばらく黙っていた。言うか言うまいか、迷っているような雰囲気。
やがて彼は頭を掻いて、ぶっきらぼうに言った。
「星乃さんとこ」
……
「好き……なんだ」
「ああ」
「……両想い?」
「うん」
ようやく、謎が解ける。
それが、相原の『大きな目標』なのか。
欠けていた大きなピースがはまり、全体像が見える。
……代わりにぽっかりと、なにか大きな隙間を空けて。
「できれば、黙ってて欲しいんだ。無理は承知だけど、頼む」
「……私は別に、密告屋じゃないんだから。」
答える私の声は虚ろだった。思考が体に追いついていない感じ。
ありがとう、という相原の声が聞こえた気がする。
彼は時計を見て、席を立った。ゴミ箱に空の缶が落ちる音がやけに大きく響く。
「そろそろ戻る。傘、使いな」
「そんな……。相原はどうするのよ」
「帰るの十時過ぎるから、そのころには止んでるだろ……それに」
スカートじゃ、走りにくいだろ?
懐かしい台詞を口にして微かに笑うと、相原は椅子と皿を手に、雨の中を店の裏口へ駆けていった。
……いろんな事が頭の中を回って、どうやって家に帰り着いたのか覚えていない。
私は部屋にたどり着くと、ベッドの上に仰向けに寝転がり、
相原の傘を抱きしめたまま、天井を見上げていた。
そうか、私は、相原のことが……
夜になっても雨は降り続いていた。
人通りも絶え、自動販売機の灯りと、時折明滅する街灯だけが濡れた路面を照らしている。
店の裏口から現れ、鞄を頭の上に掲げて雨の中に飛び出そうとする相原を、私は呼び止めた。
「……栗生さん」
彼は驚いた表情で、私のいるシャッターの前まで走ってきた。
「帰ったんじゃなかったの」
「一度帰ったわよ。でも……雨、止まなかったから」
私は私服に着替え、傘を二本持って、相原を待っていたのだった。
「……深夜に出歩くのは校則違反じゃなかったっけ?」
「あなたのアルバイトを見逃してあげるのよ。少しは多めに見なさい」
私達は傘を二つ並べて歩き出す。
仕事、なにやってるの?
皿洗い。たまに簡単な下ごしらえもやらしてもらえるけど。
そう……立ちっぱなしで疲れたんじゃない?
今日はそうでもない。雨でお客も少なかったし。
……そう言えば、なんで急に勉強なんて始めたの?
そこまで調べたのかよ……。同い年の子と結婚するには、余計に収入がいるんだと。そのための準備。
……ふ、ふーん。もうそこまで考えてるんだ
笑いたきゃ笑えよ。
笑わないわよ……。でも、それって女性は家庭に入れって事?
そうは言ってない。働きたいのならそれでいいし、そうでないならその時は、って事。
彼は疲れているはずなのに、私の質問には丁寧に答えてくれた。
こうして二人きりで話をするのは、ひょっとすると初めてだったかもしれない。
どうでもいいことを、ただ素直に、誰かと話すことができる時間。
こんな時間がとても心地いい。こうしてずっと彼と話をしていたい。今の私は素直にそう思うことができた。
でも、そんな時間もあっという間に過ぎ、程なく私達は駅前に着いてしまう。
「それじゃ栗生さん、おやすみ。また明日」
「まって」
背中を向けようとした彼を、私は覚悟を決めて呼び止める。
「……?」
「傘の、お礼」
「……いいよ。こうして持ってきてくれたじゃないか」
「いいから」
無理矢理こちらを向かせて、側に立たせる。
そして私は彼の首に手を回し、つま先立ちになると、
相原の唇を奪った。
「……それじゃ、また明日っ」
私はそれだけ言うと、相原の顔も見ずに振り返ると、雨の中を駆けだした。
雨の降る中、夜道を虹色に照らす街灯が、後ろへと流れていく。
傘は邪魔になったので途中で畳んだ。顔に、髪に、雨の粒が降り注ぎ、目尻に浮かぶ水滴を隠す。
この恋は誰も幸せにしないかもしれない。
このまま彼と秘密を共有していれば、彼は以前のように私と話をしてくれるだろう。
でも、きっと私は、その関係に満足できなくなる。
だから私は走り出した。もう立ち止まることはできない。
誰かを敵に回しても、自分の気持ちを信じて努力してやる。
私は、ずっと前から、そうやって頑張ってきたんだ。
誰にも分かってもらえないかもしれない。たった一人で頑張ることになるかもしれない。
でも私は弱くなんかない。
たとえどんな結末が待っていても、私は絶対に、最後まで走り抜けてやる。
冷たい雨の降る夜空に、私は言葉にならない叫びを上げた。
初出
2006年7月20日●*kimikiss*Megumi_title"栗生恵編「とどかない背中」”
あとがき/にゃずい
私が一番好きな作品である「とどかない背中」。
キミキスという話で、本来あり得ない形"BADEND"を扱ったこの作品は
星乃結美編の裏話として存在している。そして、結美編を先に読まれた方には理解できるだろうが
この中に登場する相原光一は、絶対に恵に対して友情以上のものを生まないだろう。
なんとも切ない話である。前作の亜紀が潔いかませ犬ならば、今作の恵は最高に往生際の悪いかませ犬だ。
前回「大切な人が幸せになることを祈るという幸せ」というカタチに落ち着いたのに対して
例え大勢の人間を敵に回そうが「自分が幸せになるために、何事も勝ち取る」という選択をした今作。
一見すると、亜紀よりも恵の方が強い人間に見える。が、実際は圧倒的に恵の方が弱い人間だ。
彼女は自分が持つ寂しいと思う気持ちに耐えられなかった為に戦う事を選んだのだ。
しかし、恵は知っている。自分が負けるであろうことを。だから、だからこそこの話は切なくとも美しい。
そしてお分かりかと思うが、このように「誰かが幸せになる事で他の誰かが不幸」になる。
これはアマガミのシナリオ構成と同じなのだ。
キミキスの時代に、すでにこのような報われない世界を扱った作品があったのはとても大事な記憶だ。
この恵がいたからこそ、自分はアマガミのソエンやBADになんの抵抗もなかったといえる。
さて、ここで疑問が生まれる。
何故キミキス-purerouge-にはこの感覚が生まれなったのだろう?ということだ。
それは単純な理由である。あの作品は中途半端にエンターテイメントであろうとした事だ。
私は-purerouge-の光一ルート基本設計について、それほど悪いものとは思ってはいない。
自分があの話で納得がいかなかったのは、結美に対する扱い以上に光一に対して罰がなかったことだ。
テーマに「闇」を扱うならば、それこそしっかりとしたBADを描くべきだと思っている。
結美編を先に読むことで、勝ち目のない戦いである事を理解できる「とどかない背中」。
恋愛は光の部分だけでは成り立たない。闇の部分も含めて恋愛なのだ。
BADEND上等である。そこからしか学べないものもある。悲しみの先に絶望しかないなんて事はないのだ。
2010/3/14
→NEXT 「麺とスープの相性」里仲なるみ編
Comments
そんな陳腐な言葉しか浮かばないけどやっぱり切ない。
初めて読んだ時と同じ感想。
……初めて読んだくりなまSSがバッドエンドという事で結構複雑な思いだった当時。
くりなまは弱い。
精一杯強がっていてもやっぱり弱い。
誰が悪者でもない。
誰も責められない。
くりなまはこの戦いにどう決着をつけたのか、今でも気になっています。
久々に見れたくりなまイラストが泣き顔なのもまた切なくて。
栗生のSSはあまり目に出来ない中で・・・衝撃だったのを覚えています。
本編だと会話があっさりしているのが残念ですが、やはりヒロインなんだと実感しますね。
負けるとわかっていて戦いを挑み、その後どうなったのか・・・もの凄く気になります。
光が人を強くすると同様に、闇も人を強くする。アマガミはその重要なシーン(絢辻さんの部屋、秘密の教室、創設祭)が鉄の闇の裡(うち)進められるのに対して、キミキスは秋の短い夕暮れを背景に一瞬の触れ合いが描かれますね。
アマガミが闇の中、それでも消えない光を探す物語なら。キミキスは陽光下に咲く一瞬の火花。
この栗生さんは夕暮れ時から一歩、雨の帳を越えて、夜の深さの中に身を進めようとしているのかも。アマガミの領分へ。
必ずいい女性になります。
酒が抜け気ってないのか、目から汗が・・・
>スカートじゃ、走りにくいだろ?
この台詞を、くりなまはどう感じたのだろう。
くりなまは弱い。
くりなまのEDを見れば、それは分かる。
そんなくりなまに対して、相原はどこまで残酷なのであろう。
この後のくりなまさんがどのような道を進むのか。
その選択肢が残されている。
この巧さがまた、読者を惹き込むのだろうなぁ
ごめんなさい、こんな切ない絵で><
でも言い訳になりますけど、このくりなまは自分の中でもの凄く好きです。
基本的にこの表紙シリーズは本編で一番好きなところを切り取ってるので
一番感情ムキだしになってる絵だと思います。そんな彼女が好き!
SSについては当時同様、やっぱり切ないです。
でもその中にある、「これから始まる未来」があるハズなんですよね。
きっと彼女の物語はまだまだこれだと思ってます。
■wibleさん
負けてでも、その敗北は彼女を大きく成長させるものだと思ってます。
ゲームとして、この期間内だけを見ればこの最後はBADENDですが
人生という長い長い時間の中でいえば、これは通過点にすぎないわけですしね。
ゲーム本編の彼女の扱いは、まさに隠しキャラなんですけど
未だに根強いファンもいますし、スペック的には最強かもしれません。
だからこそこんな話が彼女には似合うような…気がしますw
■裡沙ニャン
「アマガミが闇の中、それでも消えない光を探す物語なら、キミキスは陽光下に咲く一瞬の火花」
め、名言すぎる!!自分もまさにそう思ってたのですが、文章化されるとシビレルわーw
というわけで、完全にアマガミのような話なのですが根本的に自分もこういう話が大好きです。
大人になるための儀式といってもいいかな?どこかで一度大きな壁にぶつかって、負けるとわかってでも
それに挑むということはこれからの人生で重要な意味を持つはず。この話からそんな感じを受けます。
あ、あとですね。「ぼくうた」でアマガミを統括する最後のヒロインの曲として入れた
詞のテーマソングの曲名が「燐光」でした。本当に上のセリフは自分の中で名言確定…。
■おしんこさん
この光一は本当に男前です。
誰かを傷つけてでも、自分の大事なモノを守るということをちゃんと知ってますからね。
もちろん、くりなまにとっては酷な事この上ないんですが、こういうのが世の中にありふれた
失恋なんだと思います。ありふれた話だからこそ切ない。本当に切ない。
自分の中ではこの話は、結美編の裏であると共に表でもあり、まさに恋愛の表裏一体だと思ってます。
などと色々考えちゃうくらい文章がいいですよねw