小説:●*kimikiss*Mao 「さよなら輝日南高校」
三月も後半に差し掛かった、ある晴れた木曜日。
温かな春の日差しがリビングに降り注ぎ、レースのカーテンが時折風に揺れて光の模様を変える。
そんな日だまりの中に転がって、ただぼんやりと天井を見上げる。
先週までの殺気だった日々が嘘のような、なんにもすることがない、穏やかな時間。
ただ、そんな時間も三日続くと
「暇だわ」
思わず独り言なんかつぶやきながら、クッションを抱いて絨毯の上をごろごろ転がる。
どこか遠くから、布団を叩く音が聞こえてきた。
先月まで花の女子高生だった私、水澤摩央十八歳は、四ヶ月に及ぶ猛烈な受験勉強の末、先日めでたく超難関大学の合格をゲットした。まぁ、そんな簡単な言葉で済ませきれないほど色々なことがあったわけだけど、終わってしまって振り返れば、それも大した事ではなかったような気がする。
合格通知を受け取った日は、家中上へ下への大騒ぎだった。その大学は、私が付属高校を受験して失敗した過去のある因縁の大学だったから、ママと、特にパパの喜びようは娘から見ても尋常じゃなかったと思う。何せ仕事放り出して午後から帰って来ちゃったんだから。
私は受験勉強から解放されて、朝の二度寝を思う存分楽しみ、ファッション誌や情報誌、録画していたドラマなどで娯楽分を大いに補った。週末には両親と一緒にデパートに行って、入学式に来ていくスーツを買ったり、久々に家族三人で外食したり、しばらく我慢していたことを目一杯楽しんだ。
でも、合格の興奮が一段落し、やりたかったことを一通りやってしまうと、こんどはぽかんと、何もやることのない時間ができてしまった。
友達を誘って遊びに行くことも考えたが、とっくに合格した人もいればまだがんばってる人、残念ながら今年はダメだった人もいる微妙な時期で、なかなか周りに声をかけづらい。個人的には平日昼間のテーマパークなんて興味があったんだけど。
そんなわけで、
「暇よね」
若い身空でつい独り言が口にでてしまうくらい、暇をもてあましている訳なのだ。
ごろごろと床を転がり続ける。転がるうちにスカートがちょっと危険なことになって、こんなはしたない格好、アイツには見せられないなと思ったりする。
そう。
やりたかったことといえば、一番我慢してきたことだけが、いまだにできていない。
私が受験勉強をはじめるきっかけを作ってくれて、受験中もずっと私の原動力であり続けてくれた、一つ年下の幼なじみにして、私の恋人。
その彼とは、合格が決まってからまだ一度も顔を合わせられていない。もちろん、合格したことは通知を受け取ったその日に知らせたし、それからも毎晩のように電話で話している。でも、彼は春休み前の試験期間だったり、週末は週末で私が家族でお出かけだったりで、結局一度も顔を見ていないのだ。
会いたい。
会って、話をして、そして……。
そんなことを考えていると、クッションを抱く手に力がこもってしまい、私はまたリビングの床をごろごろと転げ回った。
「摩央ちゃん、何やってるの?」
そんなところを、掃除機を転がしてきたママに見つかった。
「昼真っからごろごろして……。掃除のじゃまだからどいてちょうだい」
休みの日のパパのような扱いをされて、私はしぶしぶ立ち上がる。
「そんなに暇なら、学校に行ってご挨拶してくれば? 卒業式からまだ行ってないんでしょ?」
そんな私に、ママがそう言った。
そうか。その手があった。
小春日和の昼下がり。わたしは私服で家を出た。
春物のコートももってきたけど、必要ないくらいのぽかぽかした陽気で、家の中にこもっていたのがばかばかしくなる。
制服を着ていないせいか、通い慣れた道も全く違って見えてくる。高校生でもなく、まだ大学生でもない、なんだか不安定な気持ち。商店街のショーウィンドウに映る自分の姿を必要以上にチェックして、昼間の通学路を学校に向かう。もうこの道を、低血圧でほげった頭で登校したり、彼と無駄話をしながら帰ったりすることもないのだと思うと、必要以上にのんびりと歩きたくなる。
校門を私服で通るのには少し緊張した。体育の授業でグラウンドを走る男子生徒の視線を避けるように早足で校舎に入り、授業中で人気のない廊下を職員室に向かう。
「トモちゃーん、おひさしぶりー」
「あ、水澤さん! 合格おめでとう!」
私の元担任、トモちゃんこと川田先生はちょうど机の前にいた。2週間ぶりの再会を抱き合って喜びあった。私に気づいた先生からのおめでとう攻めにあい、そのたびに御礼を返す。たったの四ヶ月で劣等生のイメージをひっくりかえした私は職員室では結構有名人なのだった。そうでなくても、卒業生が遊びに来てくれるのは教師としては嬉しいことらしい。コーヒーまで淹れてもらって、トモちゃんの隣の先生の席に座らせてもらった。
「でも、まさかほんとに合格しちゃうとはねー。信じていなかったわけじゃないけど、ほんとにびっくりしたわぁ」
「これも川田先生のおかげです。ほんと感謝してます」
少しおどけて答えるけど、言ってることは本心だった。スタートで相当出遅れていた私は、休み時間や放課後にトモちゃんの特別授業を受けて、とりあえず国語系だけは得意といえるまで実力をつけることができたのだ。
「ふふーん。でも一番は、彼のおかげなんでしょ?」
トモちゃんの目がキラリと光った気がした。トモちゃんは先生のくせに生徒の恋愛話に興味津々で、しかもかなりの情報通ときている。
「え、ええ。まぁ……」
「やっぱり愛の力って偉大よねぇ。あーんなに勉強嫌いだった水澤さんがたった四ヶ月で超難関大学合格だなんて。輝日南高校の新たな伝説よね」
「いや、お願いですから伝説にしないでください……」
目をきらきらさせて愛を讃えるトモちゃんを引き留める。伝説になどされた日には、二度と母校を訪問できなくなる。
「相原君もがんばって成績上げてるみたいよ。第一志望は水澤さんと同じ大学だって、担任の先生が仰ってたわ」
それは初めて聞く話だった。私が知らないところでも、彼がちゃんとこれからのことを考えてくれていると思うと、少し嬉しい。
「ひょっとして学校に来たのも、ほんとは彼が目当てなんじゃないの?」
トモちゃんがいたずらっぽく笑う。
「そ、そんなことないですよ。私はただ先生方に御礼を……」
「で、実際のところは?」
「……ちょっとだけ、会えればいいなって」
二人して顔を見合わせて、くすくすと笑った。
トモちゃんは先生とは思えないくらいフレンドリーで、いつも友達感覚で話をしていた。だからこういうときにも、本音で話ができる。私は一人っ子だから分からないけど、姉がいたらこんな感じなのだろうか。
そんなよもやま話をしているうちに、授業が終わるチャイムがなった。
「あー、次の時間授業なのよ。ごめんなさいねかまってあげられなくて」
「お気遣いなく。私、適当に校舎まわってますから」
授業さぼっちゃおうかなーと、教師にあるまじき言葉をつぶやきながらトモちゃんは教科書をまとめて教室を出て行った。
私はというと、下級生たちに声をかけられるのもおっくうだったので、授業がはじまるまでもう少し職員室で時間をつぶし、次のチャイムが鳴った頃、また人気のない廊下に出た。
授業がはじまって、校舎の端まで誰もいない廊下をひとり歩く。
隣の教室からは先生の声が聞こえてきて、自分がなにか悪いことをしているような気がして少しだけ愉快だった。
校則で禁止されていた携帯を取り出し、堂々と写真をとる。アングルを決めるために液晶を覗くと、誰もいるはずのないレンズの向こうに、かつてというにはあまりに近い自分たちの日常が見える気がする。
授業を聞かずに内緒話をしていた理科室。
風紀委員と追いかけっこをした廊下。
誰かがもってきたCDにあわせて歌って踊った音楽室。
放課後、彼と向かい合わせで勉強した図書室。
もちろん、携帯を下ろすと誰もいない教室が広がっているだけだけど。
いつかは思い出と呼ぶことになる、そんな記憶を確かめつつ、ぱしゃり、ぱしゃりと撮影音を響かせながら校舎をまわった。
春の風に逆らって重い扉を開けて、明るい屋上に出る。
授業をさぼってひなたぼっこをしている不届き者はいないらしく、屋上も私の貸し切りだった。雲一つ無い天気のおかげで、輝日南の街が一望できる。
風に流される髪を押さえながら、フェンス越しに学校を見下ろす風景を一枚。
そして、振り返って屋上の風景を一枚、ぱしゃり。
私の三年間の中で、たぶんいちばん大事な場所も、きっちり写真に収めておく。
モテる男になりたい。そんな笑ってしまうくらい素朴な願いを口にした彼は、私の的確なアドバイスを忠実に守り、あっというまにいい男に変身した。……『私好みの』いい男だったってことには今でも気がついていないみたいだけど。
そして、文化祭の日。
立派な王子様になった幼なじみ男の子は、この屋上で私に告白してくれた。
私にとってはある意味、幼い頃からの願いが叶った瞬間で、今でも思い出すだけで幸せな気持ちになれる。
ただ今日は何故か思い出がそこで止まらず、そのまま彼と交わしたキスのことになり、抱きしめられた腕の感覚とか、ふれあった唇の感触とか、何故かそんなところまで生々しく思い出されてしまって。私は一人身もだえし、大いに赤面していた。
屋上に誰もいなくて、本当によかった。
思い返せば年が明けた初詣の場、ちょっとした意地の張り合いから、受験が終わるまでキス並びに一切のスキンシップは禁止という「キス禁止令」を発令してしまって以来、彼とは一度もそういうことはしていないのだった。
(……欲求不満になってるのかなぁ……)
無意識のうちに唇を触る私をあざ笑うかのように、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
『三年間どうもありがとう』
『3−C最高!』
『川田先生大好き! 愛してる!』
三年C組の教室は、当然というか、がらんと静まりかえっていた。
黒板には卒業式の日に書き殴った文字がまだ残り、謝恩会で使われたクラッカーの屑が掃除しきれず床に落ちていた。
傾きかけた西日に照らされた誰もいない教室は、ちょうど今の私が学校の外の存在であるように、学校という世界から切り取られた別空間のように思える。
卒業式の日は受験期間中ということもあり、全員が参加できた訳ではなかった。式の後の謝恩会に至っては、参加人数はますます少なく、参加した者も自分の進路が決まっている人間はごく僅かで、みんな目先の不安にとらわれたままの参加だった。
そんな雰囲気をひっくりかえしたのが、他ならぬ担任のトモちゃんだった。
今は受験を目の前にして右往左往しているけど、そんなことは本当はちっぽけなことにすぎない。合格だろうが不合格だろうが、あなた達の価値はそんな試験で測れるほど単純なものではない。そのうちきっと受験なんて話にならないほど大きな壁が立ちふさがって、本当にあなた達の価値が試される時が来る。その時にむけて、これからも頑張って。
普段のほんわかでおっちょこちょいな言動からは考えられないような、最初で最後の教師らしい訓辞は、残念ながら最後のほうが涙でぐずぐずになってしまって、スピーチとしてはあまりいい出来ではなかった。でも、校長や来賓の祝辞より、私たちの心に一番ひびいたのは確かだった。
そこから先は、もらい泣きする女子生徒、感極まって叫び出す生徒と、会は半ば収集がつかなくなり、隣のクラスからも何事かと様子を覗かれ、トモちゃんは最後の最後に教頭先生からお叱りの言葉を頂いた。
たぶん私は、この卒業式のことを一生忘れないと思う。
そんな一月前の大騒ぎのことを思い出しながら、私は自分が使っていた席に座った。
この席で、高校生活の最後の数ヶ月、今までにないくらい必死になって勉強した。そんな机をなでて、ありがとうね、とつぶやいてみる。
それがいけなかった。
卒業式の日は、大泣きする他の子をフォローする側に回ってしまい、私自身は泣くタイミングを逸してしまっていた。そのときに発散させておくべきだった感傷が、よりによって一ヶ月遅れで押し寄せてしまったのだ。
戻れないことが悲しいのか、やり残したことが悔しいのか。そんな理屈では割り切れない切なさが胸の奥からこみあがってきて、目頭があつくなり、鼻の奥がつんとなって、あっと思った時には大粒の涙が頬をつたっていた。
ああ参ったな。卒業したし、彼に会えるかもしれないしで、結構気合い入れてメイクしてきたのに、こんなに泣いたらパンダみたいになっちゃうな。頭ではそんな見当違いな事を考えているのだけれど、気持ちの方はまったく落ち着いてくれなくて、次から次へと涙がこぼれて机の上にぽたぽたと雫が落ちていく。
これはもう、落ち着くまで泣き尽くすしかないかな。そんな風に諦めようとしたとき、
教室の後ろでドアの開く音がした。
あわてて手の甲で涙を拭って、振り返る。
「摩央姉ちゃん……。泣いてるの……?」
ああ、どうしてこいつは、一番側にいて欲しい時に、一番見られたくないタイミングで現れるのだろう。
「ううん。何でもない。……何でもないよ」
私は、愛しの彼に、泣き笑いでそう答えた。
「光一、あなた授業はどうしたの?」
会えて嬉しいくせに、泣き顔を見られたのが照れくさくて、ついそんな言葉が先に出てしまう。
「謎の美女が校内を徘徊してるって噂を聞いて、授業どころじゃなくなった。どうせ試験明けので大した事やらないし」
彼はポケットを探ってハンカチを取り出すと、私に差し出してくれた。ハンカチはくしゃくしゃではなく、洗濯済みでアイロンがきっちりかけられていて、ちゃんと私の言いつけを守ってくれているのが嬉しい。有り難くハンカチを使わせてもらい、涙と鼻水を拭った。ハンカチはあとで洗って返そう。
「落ち着いた?」
「うん。もう平気。ありがとうね」
彼は私の隣の席に座った。通路一つ分離れた距離が、少し物足りなく感じてしまう。
「じゃぁ、改めて、合格おめでとう」
「ん……。ありがとう」
あぁ、この言葉が欲しかったんだ。電話で何度も言われた祝いの言葉も、こうして面と向かって言われると喜びがじわじわと胸の奥からこみ上げてくる。
「せっかく同学年になれるチャンスだったのに、残念だったわね」
「摩央姉ちゃんは前科もちだから、ちょっとは期待してたけど……」
「こーら、もうその事は言わないのっ!」
彼の頭を軽く小突いて、二人で笑った。こんなあたりまえの会話が、たまらなく愛おしい。
「ねぇ、摩央姉ちゃん」
「ん? なぁに?」
笑いの後、少しの沈黙があって、彼は少し固い声で切り出した。
「僕、来年必ず同じ大学に行くから。それまで待ってて欲しい」
「待つって……。家も近くなんだし、別に今まで通り会えばいいじゃない?」
「いや、そうなんだけど……。大学に入ったら、サークルとかコンパとか色々あるだろうし……」
そういう彼の表情は浮かなかった。
卒業・合格で浮かれていたけど、あと一年ここに残る彼には彼なりの心配があるということなのだろうか。
「なぁに? そんなに私のことが信用できない?」
「いや、そんなことはないけど……。摩央姉ちゃんモテるから……」
言いながら、あさっての方向を向いてしまう。どんなに男らしくなっても、照れてしまうあたりが可愛い。
「そっかー。モテる彼女をもつと男の子も心配よねー」
「茶化すなよ……。こっちは本気で心配してるんだから」
私はそっと立ち上がって、彼を背中から抱きしめた。
「摩央姉ちゃん……」
「光一ほどいい男なんてそうはいないんだから。もっと自信もちなさい」
「そういってくれるのは嬉しいけど……」
「もう、ライバルが現れる前からそんなのでどうするのよ。私に言い寄ってくる男がいたら、これでもかっていうくらいベタベタして見せつけてやりなさい」
「そうだね……。うん」
「よし、いい子いい子」
彼の頭をくしゃくしゃとなでてあげる。
「それはそうと、こうして約束通り合格したわけだから、光一からもそれなりのお祝いが欲しいわけなんだけど」
「え……。いいけど、そんな高い物はダメだよ」
彼の顔に少しおびえの表情が走ったのは気のせいだろうか。
「なによぉ言い出す前から」
「いや、摩央姉ちゃんだと、服とかアクセサリーとかねだられそうな気がしたから……」
「そんなんじゃないわよ。ただ、その、キス、して欲しいだけだから」
沈黙。
そして互いに赤面。
「な、何よぅ、そこで黙られたらこっちまで恥ずかしいじゃない!」
「いや、いきなり言われるとちょっと……。そういえば、キスしたいって言ったことは何度もあるけど、されたいって言われたのは初めてで……」
「もう、ごちゃごちゃ言わないの!」
打ち解けた雰囲気はどこへやら、お互いになんだかギクシャクしてしまっている。
「んもう、これじゃファーストキスからなんにも進歩してないじゃない」
「ごめん、久しぶりだからかなり意識しちゃって……」
「気負わなくていいの。いつも通りにすればいいんだから。緊張しすぎて前みたいに鼻にするのは無しだからね」
以前の大失敗を持ち出されて、彼は口をへの字に曲げた。あの時の失敗は今でも相当尾を引いているみたいで、
「分かったよ。百点満点のキスをしてあげるから覚悟しとけよ」
それでもこの話題のおかげで、互いに肩の力を抜くことができた。
私は気持ち上を向いて、そっと目を閉じた。
私の唇に、彼の唇の感触が重なる。
彼の手がそっと私の肩を抱き、私は両腕を彼の背中に回した。
久しぶりのキスはとても温かで、ぬくもりを通して彼の優しさが全身に伝わってくる気がした。
ずっと我慢して、待ちこがれてきた、優しいキス。
だが、それで終わりではなかった。
(……!)
彼の唇が私の下唇を挟み、軽く吸いついてきた。続けて、両唇を優しく動かし、互いの唇が交互に相手の唇を挟む形に割り込んでくる。唇の触れあう感触によって、僅かな恐怖と、今までとは異質な喜びが呼び起こされる。
(!!)
吐息で拒否の意志を伝えるが、彼の行いは止まらない。挟み込まれた下唇が、彼の舌でちろちろと撫でられてしまう。
抗おうとすれば簡単に離れられただろうし、本気で拒否すれば彼はこれ以上のことはしなかっただろう。しかし、二ヶ月余りの禁欲生活の反動なのか、私はこの全然いつも通りじゃないキスを、嫌とは思わなかった。むしろこのままもう少し続けてしまいたいと、そう思ってしまった。
新たな動きの無くなった唇がもどかしくなり、私も舌を伸ばして彼の上唇をなぞってみる。それを同意ととらえたのか、彼の舌は私の唇を優しく開き、ゆっくりと私の口の入り口に滑り込んだ。互いの舌先が一瞬ふれあい、全身に軽いショックが走った。すぐに舌を離し、しばらくまた唇を重ねるだけの時間が過ぎた。
拒んでいるわけではないことを伝えるために、今度は私から彼の唇に舌を滑らせ、今度はもう少し長く舌先を絡め合う。ぎこちない触れ合いだったが、それだけで今の私たちには大きすぎる刺激だった。
どちらからともなく唇を離し、目を開ける。
「……全く。どこでこんな事覚えてきたのよ」
だが、今までの行為(と、その行為によって引き起こされた自分の感情)があまりに気恥ずかしくて、彼のことをまともに見ることができなかった。
「……ごめん。その、久しぶりすぎてつい……」
それは彼も同じのようで、まだ互いの体に腕を回しているのに、顔だけ別の方向を向けている。
しばしの沈黙。
仕方ない。こういうときのフォローは、立ち直りの早い女の仕事なのだろう。
そんな理屈で自分を納得させて、私は両手に力を入れ、彼の胸におもいきり顔を埋めた。
「ま、摩央姉ちゃん……」
「光一の心臓、バクバクいってる」
「……うん」
「ありがとう。嬉しかったよ」
「……うん」
「私ね、前に光一の顔、携帯で撮って待ち受けにしてたでしょ?」
「……うん」
「会えないとき、どうしても我慢ができなくなるとね、」
「……うん」
「私、携帯の液晶にキスしてたんだよ」
「……」
「そのくらい、光一のことが大好きなんだから」
「……」
「人の心配してないで、ちゃんと同じ大学に来なさい」
「……うん」
「私はずーっと、あなたのこと待ってたんだから」
「……分かった。ありがとう、摩央姉ちゃん」
ようやく立ち直った彼と顔を合わせて、私たちはやっと微笑みあうことができた。
「えー、ラブラブなところ申し訳ないんだけど」
そんな甘々な雰囲気を、冷たい声が突如として打ち砕いた。
私たちは慌ててとびずさり距離を置こうとして、光一がイスに引っかかって後ろ向きに派手にひっくり返った。
「と、トモちゃん……」
「川田先生……」
教室の入り口にはいつのまにか、トモちゃんが笑顔で仁王立ちしていた。彼女の瞳が怪しい光を灯し、背後に青白い炎が渦巻いて見えるのは果たして気のせいだろうか……
「相原くぅん、私の授業を抜け出して、ここで何をやっていたのかなぁ?」
「あ、あわわわわわ……」
ひっくり返ったままの彼は蛇ににらまれたカエルが如く、立ち上がることもままならない状態だ。トモちゃんはつかつかと彼に歩み寄り、耳をつかんで引きずり起こした。全く力を入れていないように見えるのに、今にも彼の体が釣り上がりそうなのは何故でしょう。
「二十■歳独身彼氏なしの前で見せつけてくれるとは良い度胸ねぇ」
「先生っ、これには深い訳がっ」
「そうよトモちゃん、それを言ったら自分で負けを認めることになるわ!」
「あれー、先生、水澤さんの声が聞こえないわー。相原君が職員室で正座して反省文書くのと、二人して不純異性交遊で生徒指導室いくのと、どっちがいいかしら?」
「あー、反省文でお願いします。光一、頑張ってね」
「摩央姉ちゃんー!」
こうして彼はトモちゃんに、耳を引かれて連行されていった。
「またいつでも遊びにいらっしゃい。こういうことがなければ歓迎するから」
去り際、トモちゃんは(裏のない)笑顔で私に言ってくれた。
そして私はまた一人きり、誰もいない教室に取り残される。
……あまりに唐突なハプニングのおかげで、当初感じていた感傷なんかは全部どこかに吹き飛んでしまった。
あとに残ったのは、彼には悪いけど、なんとなく愉快な気持ちだけ。
そう。
居場所が無くなれば、新しい居場所を作るだけ。
過去に戻れないなら、先に進めばいいだけのことだ。
卒業程度でくよくよするなんて、私らしくない。
私は携帯を取り出すと、夕日に照らされる黒板を背に、セルフモードで自分の顔を撮影した。涙のせいで化粧が崩れていたけど気にしない。
そして、黒板の隅っこに、白のチョークでこう書き加えた。
『バイバイ、輝日南高校』
初出
2006年6月18日●*kimikiss*mao_title"水澤摩央編「さよなら輝日南高校」”
あとがき/にゃずい
ぎーちさんのblog・Wheel-of-Fortune::BLUE(現在は閉鎖)を見つけたのは、2006年7月のある日曜日の朝だった。
その日は友人が家に来る約束をしていた為、早朝から起きていたのだ。
そんな時、眠気まなこのまま彼のサイトの明日夏SS読んだ。
一瞬で虜になってしまった。他には?他にはないのか?!
「…まだ連れが来るまで時間あるなぁ。よしコーヒーでも入れて本格的に読むか」
そして1時間後。もう今日は終わりでいいよと思うぐらいに自分は満たされていた。
友人がやって来て、格ゲーなんかやりながらも考えてることは、「ああ、あのSSの絵が描きたい」であった。
そこで昼食中に「勝手に絵を描いても大丈夫かな?」と友人に相談してみた。
すると「ちゃんと描かせてもらいました」って挨拶に行けば、問題ないんじゃないかなとの事。
おお、そういうものなのか!そういうものだよね!と、自宅に戻り早速ラフを描き出した。
友人はそんな自分を生暖かく放置し、一人でゲームをやっていた。なんというか彼がウチに来ている時に
半分以上の確立で自分は絵を描いてる気がするのだが…。まぁ、ここで一応いつもスンマセンと言っておこう。
そんな中、明日夏を描き終えた。そして次に描きたいと思ったSSが今回の”さよなら輝日南高校”であった。
やはり自分も卒業というイベントには思い入れがある。そしてSS本編の摩央と同じくブルーになったものだ。
色んな要因が重なり、自分にとって春のイメージは「別れ」しか連想できなくなっていたのだ。
新しい出会いよりも、別れゆく人達への悲しみの方が深い。
だから前を向いて歩こうと思うためには、かなりの時間を要する。
泣いたら泣きっぱなしだ。決して笑顔になれない。笑顔になるには時間をかけて少しづつ自分を騙していくしかない。
泣いてでも笑える強さは素晴らしいと思う。
いつもみんなの中心であり、笑顔の絶えなかった摩央に「泣いて笑ってお別れ」は相応しい。
このちょっとドタバタした結末が、最も彼女に似合っていると思う。
自分にはそんな芸当は出来なかった。だからこそ彼女に憧れる。
心の中でチョークを持ち、一緒に別れの言葉書いてみる。
ああ、なんて潔いのだろう。だからこそ笑えるのだ。悲しくても笑えるのだ。
今度、自分の周りで別れがきたらハッキリと心の中で宣言しよう。
そしてしっかりと想いを書き残そう。摩央のように。
"バイバイ、輝日南高校"
2010/3/04
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Comments
摩央姉が泣くシーンとか最後の川田先生とかw結構鮮明に覚えていました。
空っぽの教室の匂いのしてくる印象深い話だったかな、と。
BU文庫、続刊期待してます。
絨毯の上を転がるところ、学校までの道のり、誰もいない廊下、屋上、そして3−Cの教室。映画的、というのでしょうか。
摩央姉の目に映る光景はリアルに、しかし摩央の心情を反映したかのようにメランコリック。
それを受けての摩央の動きと心情。それらが一体となって、見る者に摩央姉とのシンクロ率を高めさせている。
もしキミキスというゲームを知らなくても、彼女の人物像は浮かびあがってくるのではないか。
原作発売から一カ月で、これだけのキャラ解釈がなされるというのは、本当にすごい。
いやー。読んだ後しんみりしてしまいました。この時期にこういう作品を読むとふと記憶が蘇ってきて…懐かしくなりました
これからも期待しています
摩央姉、光一、トモちゃんの三人が紡ぎだすストーリー。
摩央姉ちゃんにはやっぱり支えが必要なんだ。
初期はトモちゃんであり、これからは光一が
弱いところはあるけれど、誰かがいてくれるから頑張れる。
先の明日夏にも通じるところがあるのかもしれません。
トモちゃん、でぃーぷきす初めから見てたな!このおませさんめ!
BU文庫の続刊が楽しみで仕方ないっ
僕自身は端の端くれですが、いち書き手としてこのような作品を書くのは目標です。
トモちゃんは絶対に最初っから見てましたね(笑)
読もう読もうと思っているうちに閉鎖されてしまって読めなかった戯市朗さんのSS。
こういう形で読む機会が生まれるのはとても嬉しいです。
案外覚えているもんなんですよね、こういうのって。
自分も何年かぶりに読んだのに、当時の記憶がそのまま残ってるかのように
頭の中でストーリーの行く末を、どんどん思い出しながら読みました。
まおねーの話のともちゃんは本当に美味しすぎる。
中盤のしんみりした雰囲気を吹き飛ばす感じが最高です。
■裡沙にゃん
そうなんですよねー。
何が一番驚くかって、このSSが書かれたのは発売から僅か一ヶ月だったこと。
そして最もキミキスに熱狂してた頃に、こんなものを読んだ日には…。
キャラクターの造詣はマルチ展開すると一般的に、ゲーム→ノベル→CDドラマ→漫画→アニメとなるのですが
自分の中でのキミキスは、ゲーム→ノベル→二次創作→CDドラマとなってます。
ええまぁ、その二次創作がSSなんですけどねw
普通ここまで感化されたりはしないんだけど、なんでしょうね。ものすごく作品と
波長があったというか。
■通りすがりのツバメ軍団さん
お久しぶりです〜。
これからもガンガン更新しますんで、時間の許す限りお付き合いくださいなー!
あと卒業シーズンである、この時期にどうしても載せたかったのでまおねーが二番手になりましたw
■おしんこさん
まおねーの話はド直球なので、最もわかりやすい続編だと思います。
こんな卒業であってほしいな彼女には。という思いが全部再現されてると思います。
そして、ともちゃん登場の美味しさも万人が納得できすぎるタイミングで
まってましたwwwと言わんばかりなのが楽しいですよねw
■wibleさん
ともちゃん大人気だなぁww
wibleさんのSSも読ませてもらってますよー。
というか、基本的に自分はアマガミをメインコンテンツとしてるサイトさんは
一通り目を通してます。みんながどんな想いで作品に接してるとか知りたいですしね。
というわけで、こっちもがんばるので、そちらもがんばって!
■さんとくさん
こんな卒業をしたかった…
と自分も強く思ってしまいます。旅立ちはやはり気持ちがいいものであってほしいですよね。
とまぁ、読みそびれてしまった方々、初めて作品に触れる方々、そして懐かしんで読まれてる方々。
それぞれの気持ちは違うけど、一ついえる事は「みんなまだキミキス好きなんだな」って事でいいかな!